花鳥風月

生かされて行くもの達の美しさを見つめて,
ありのままの心で生きている日々の、
ふとした驚き、感動、希望、

野球

2020-02-12 07:36:37 | 70代の日記

戦後、南紀の山奥の小学校で、

早朝、暗いうちから、家の裏だった小学校のグラウンドに

少年たち、まだ1年生になったばかりの子供たちまで

バックネットの前で、走り回っていた。

朝食前に、布団の中はもぬけの殻の弟を呼びに

小学校のグラウンド野球をしていた弟を呼びに行ったものだった。

まさに、、、野、球、

ミットやグローブの無い子供たちも

貸したり借りたりが、当然のように

いろいろな古い野球道具や、ローラーが有った

昭和28年ごろの

私が野球というらしい、、、男の子の夢中になるゲームに出逢った思い出がある。

それまでも、中学生の兄が、

野球らしいゲームをしていたのがうっすらと

記憶に残っているが、

まるい紙で出来た「めんこ」がはやっており

川上、土井垣 青田、沢村 、、、

背番号から上の≪上半身の絵でバットやミットを構えている

コースターのようなメンコであった。

男の子たちは、学校の休み時間にまで

野球のスターの円いメンコを床で打ち合って、

ひっくり返した方もらい受けるという遊びがはやっていた。

私が野球に出逢ったのは、兄弟が竹バットで軟球を打っていた戦後の疎開地であった。

クリスマスにサンタさんに頼むのは「バット」「ミット」「グローブ」「ボール」など

歳を追うごとに、野球道具が増えて行き

バックネットも校庭に出来て、戦後の野球熱はすごいものが有った。

13歳の時、東京に転校した私は

日本の少年の間では野球無くして青春は無いというほどの

野球熱に出逢って、神宮球場や、後楽園に

野球を診る為に入場券を買うための長蛇の列が出来て

「ダフ屋」と呼ばれていたあんちゃん風の人が

当時、、、「何千円で、内野席」~~~と

長蛇の中から、せっかちな客をどんどん上等席に送り込む券を売っていたりした。

やがて、そうした行為が取り締まられるようになり

読売新聞を購入すると

内野席やネット裏が前売りしている情報が入った。

そして村山、長嶋天覧試合の永遠の名場面がTVで観れるようになり

家庭のTVは昼間から野球を観たい近所の人で、居間は座る場所が無かったという

巨人阪神時代が、、、強烈に記憶に残っている。

甲子園も、早慶戦も、大学対抗野球も

日本の文化になっていた時代に

私は、日大の理工学部の学生らと

多摩川の練習所に

長嶋さんを、、、王さんを、、、近くで観れるというので

学友とお茶の水から、かなり遠かった球場まで

観に行ったことが懐かしく思い出される。

そのころ、野村選手の大活躍の時代に

「野球」。。。野。。。球、、、という字を

ジーと見つめてしまうような、

華やかな巨人阪神とは、、、別の魅力の野球選手がマスコミに

連日報道された。

私は、、、野球には、、、まるっきりの素人ですが

兄弟や、大学が男性が多かったこともあり

受け身の知識ばかりであるが、、、

野村選手には、全く別の印象で、無意識に野村さんの記事を読んだり

野球の監督さんとしての発言に注意が呼び寄せられるように

一言一言が記憶に残る「自然」を感じてきた。

今は、、、「マー君」などと呼んだら

フアンから、お叱りを受けるのはわかるが

私は、斎藤君と、マー君の高校野球の対決が忘れられない。

垢ぬけたハンカチ王子の斎藤選手!都会的な

北海道ゆかりの野草の強さのような

ハングリーな時代が勝つことへの基礎の心をつちかったのか

マー君は、すごい瞳でバッターを睨み球を投げていた。

私も、大学時代に父を亡くして、一丁前に苦労を知った時であった。

斎藤選手のハンカチ王子のイメージは

ジャイアンツの華やかさに重なるものが有った。

マー君の雰囲気は「野草のような、野生動物から受ける厳しい炎の目」だった。

しかし、、、軍配はハンカチ王子にあがった。

このとき、、、不思議なことに、、、

私は、マー君と、野村監督が重なった。

どちらのファンと言えるほど

私は野球に詳しくはないが、

野村監督がマスコミに出ているときは、

極力、話を聴くために時間を作った。

TVで、野村監督が、マー君の事を聴かれて、お答えしていた言葉が忘れられない。

アナウンサーが「彼を指導されたときの、、、」ウンヌンを話として質問したとき

「彼は私が指導したなどと言えるような選手ではありませんよ、、、大きな選手です。」

そのような意味の事を話されていたが、

野球を通して、知り合った人は、男女を問わず

その人たちも、大きな力で生きているというような、、、

自分もほかの人も、立場の違いはあっても、、、その人たちの存在には

介入しない立ち位置で、マー君を語る時、

私は、まるで、親子のような感じで、高校時代から、アメリカに行くまでの

お二人の、雰囲気が、

人間的に素敵で、観ていました。

長々と、、、書きましたが

長嶋さんも、王さんも、村山さんも

金田さんも、野村さんも

マー君も、

ハンカチ王子も、、、

野球の世界を知らない人の間にも

多くの幸せを下さった選手の皆さんですよね!。

野球を良くわからない

当時の女性たちの青春には

華やかさと、

森羅万象、、、野山のご来光をを診るような

地味な輝きのある

奉公の違う魅力の選手たちとの球場での勝負は

味わいのある、スポーツを通して、人間の生き方のようなお手本でもありました。

野村夫人華やかだっただけに

一日でも長く、、、野村監督より長生きされていたなら、、、と

野村さんの亡くなられたニュースにびっくりしながらも

奥様が、御迎えに来られたような気がして、

心より、、、尊敬していた方の旅立ちをご冥福を祈りながら

野球って、、、お茶の間の、、こんな婆ちゃんまで

知らず知らずのうちに、、、心の知人になってくれていたのだな~~~って!

野村さん、、、一言一言を、、、大切にしています。

私は、、、雪を掻いても、、、基礎を大切に

ひとかきひとかき、、、積み上げて、、、

春には消える雪の垣根を50年間家庭では主婦の私の筋トレ仕事として

請け負った北国で生きる基礎を大切にしてきました。

結婚後、、、本気で選んで買った衣類は、、、雪かきのヤッケだけ!

これが出来ないと、、、北国の勤務医の主婦は務まらないと

基礎の筋肉を大切にしている75歳です。

 

9回で消える努力に

全力投球する野村さんの考えに、、、感じることの多い、、、親しみのある強い人でした。

きっと、天国でも、、、皆、、、迎えに来ていますね!!!

75歳の婆ちゃんの、、、私の中の、、nomosan...

これは独断と、手前勝手な私だけに通用するかもしれない、、、日記帳です。

お別れの感謝が湧いてきたので、、、書きました。

 

 


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