空気が和らぎ、桜色に霞んでいる。桜の花が一斉に咲き始めた。このところの暖かさで、たなびくさまがやさしく見える。山も桜色に染まっている。勤務途上の車窓から、視界の広がる範囲に、桜色のトンネルが続いているようだ。
今年ほど、春が待ち遠いことはなかった。彼岸を過ぎても、一向に暖かくならず、冬に逆戻りしたような天気で、元気を出そうとしても、力が入らない。どうしようかと悩むばかりで、まるで出口のない深い穴に迷い込んだようだった。
行けども往けども、光は差さず。暗闇の中で、慣れてくる筈の物も見えず。途方に暮れるということとは、こういう状況かと、幾度もため息が出た。私自身が冬だった。荒れ狂う吹雪の中、往くも下がるもできず、雪に閉じ込められていた。
雪は降り固まると、その中で暮すことを考え、寒さを凌ぎ、生きる術を思いつく。人間とは、知恵も勇気も、工夫もする。その当たり前のことをしながら、生きていかねばならない。生きることは自分では決められない。生かされていることを感謝した。
日が差したのは、この時だった。雪は見る間に溶け、暗闇に光が差した。だが、目が眩んで蹈鞴を踏んだ。油断したのだ。体がふわりと浮き、何処かしらにゆっくりと落ちていく。そこにはさまざまな自分が居た。時間をそこに集めているように。
人間の一生は、死んでいく時、そんな風に見えるのだろうか。幼い私、少女の私。大人になっていく私。そのどれをも精一杯に生きている。けれどもその時の私は、未来の私を知りはしないのだ。雲の切れ間から、光の中から、手が現れた。
その手に掬われて、うごめく生き物の集まりに投げ込まれた。やがて新しい命になるように、再生される液に浸されて。この先、どれほどの時を待つのか、数え切れない数多の星の群れの中で、じっと考えるのだ。
この枇杷葉は、りささんのです。秋田のご友人とに、送らせてもらうよう、育てています。まだ小さな木ですが元気です。