枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

聴いてもらいたい・・・

2011年04月22日 | Weblog

 人間はどこかで喋ってしまうと、寡黙になってしまうのか?私の場合、家内では何も話さないか、活字に没頭する。喋るのが億劫になるのだ。銀河に話しかけることはあるが、食事の有無くらい。長い会話は殆どしない。ここに書きながらも、頭の中で考えるだけで、話すことはしない。極たまにテレビはつける。必要な番組を観たら消す。

 どうも貧乏性なのだ。この状態で、年を重ねていくと、とうてい施設のお世話にはなれない。自分の生活のパターンを崩せないから、窮屈に思うだろうし、四六時中煩いのも苦手だ。困るのは食事の内容くらいで、旬の新鮮な野菜を届けてくれればいい。まあ、自分でも作るが。こちらの注文に応じての配達が望ましい。

 そうだね。話相手が必要か・・・。パソコンの機能が、これ以上はややこしくならなければ、続けることができるが、操作方法や新しいことへの対応には躊躇するだろう。それでも、自分の時間が保てて、暮せていければ、それに越したことはない。宗教の勧誘には玄関を開けず、地域の行事にも出かける気持ちは薄い。煩わしいのが先に起つからだ。

 例えそれで偏屈と言われようと、奇人変人と呼ばれようと、意に介さない。まあ、息子や嫁や孫たちが、ときたま訪れてきて、ぶったまげるかも。うふふ・・・魔女になっていたりして。枇杷葉と暮らし、死んでいく時には枇杷も一緒に、時空の裂け目に入り込もう。枇杷葉の色濃い奈良時代、或いは江戸時代に翔けたい想いがある。

 早や、4月も過ぎようとしている。月日の移り変わりは一瞬だ。年月は周るが、一日として同じ日はない。今日という日の過ごせることを、感謝しなければ、真実はないようにも思う。しかし自分の力の限界を感じることだろう。どうにもやるせない。これらが惑星であったなら、早々と木っ端微塵である。軌道修正もままならず。

 先月の暖かな日に、座布団の上に乗っかっている銀河。布団を干しているのを、よく知っている。この後、ここで日向ぼっこを始めた。

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