昔の人は、地震・雷・火事、と言い、自然界の現象を、恐れ敬っていた。ところが科学的に解明され、事実はこうだ、と伝えられてくると、神や仏を軽視した感はなかっただろうか。快適で近代化の生活は、いいようでもあるが、原発を造らせ、その恐怖に脅えるこの世には、深く心が痛む。都知事当選者は、原発は必要だと言うが、では東京のど真ん中に造れるか。
日本は島国である。何処に造ろうが、危険なことには変わりない。絶対と言う安全はないし、その保障もない。人間がするのだ。神にはなれない。況してや、そのことが地球に対して、どうなのかを決めるのは、私たち人間ではなく、地球ではないのか?それを、人類のためにしているように言うが、甚だ間違っている。
今日は上弦の月。やはり地震があった。新月や上弦の時、或いは下弦や満月には、潮の満干潮、小潮や大潮の変動が関わっていて、津波を引き起こしたりする。その殆どは、旧暦に記載され、昔の人はそれらに宇宙の様や、星の動きを重ねていた。快適で素晴らしい電化住宅では、とてもそこからの難は逃れられないようだ。
宇宙を見上げて観れば、とてもよくわかることがある。家の中で、テレビを観ていたりしていると、大切なことを見逃す。つまりは命が守れない。人間の本能が示す警告に気づかない。生活に便利な物ばかりに頼り切ると、窮地に立った時には、なす術もないのだ。人間は、本来考えて行動できる動物であった筈だ。機械に操られる生活を選んではいけないのだ。
多少の不便さや、清貧の暮らしを時々はしていないと、いざと言う時には耐えられない。命のあることを感謝していこう。私も、何もない時があった。全く食べない日もあった。仕事がなければ、収入はないのだからしかたない。けれども諦めなかった。奈落の底まで落ちて行けば、後はじわじわと這い上がってくればいい。
全力で頑張るのは疲れるからしない。真面目にはするが、無理はしないのだ。きちんとしても手抜きはしない。工夫はするが、横着はしない。小さな積み重ねの努力をしていく。誰の眼に留まるのでもないことで、神さまさえ知っていればいいのだから。自分の試練であり、生きざまでもあるのです。
ラナンキュラスの芽が出ました。この後、雪に降られて、霜焼けになりました。葉が黄色になったよ。今年は、花の咲くのがどうかしら。