枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

皐月、大潮・十方ぐれ入り

2019年06月16日 | Weblog

 夜半には止んでいた雨も、明け方にはすっかり晴れてきた。雲があるとはいえ、外出には好都合だ。日曜日は、献立も作らねばならず、外出も兼ねることがあり、加えて冷房のフィルターも洗わねばならない。ほかの職員に任せておくと、黴が発生したりして大騒ぎとなる。高い所は無理なので外してね。

 父の日。江戸時代にも、何時の時代にも、家長の権威は人間性で保たれていた。男だから、戸籍主だから偉かった訳ではない。尊敬に値する人間には、その雰囲気もあれば教養も含まれる。無論、金銭的なこともあるだろう。貧しいからといって、一家の柱は長でもあった。然し、裏返せば女性の強さも。

 物事の前面に出て行くばかりが、主でもないように考えられる。世評と言うのか、風潮とも言うべきかは定かではないが、表面だけを見ての判断にも依ることが、一般的には多い。以前、子どもの通う小学校に、書籍の寄贈をしたら、広報誌に伴侶の名前で記載された。パートとは言え、稼いでの寄付だ。

 それも、学校まで出向き、働いている先で購入を伝えているにも係わらず、勝手に判断されての記載である。これには唖然とし、抗議もした。納得がいかないではないか。個人の寄付にも様々あり、何故本人の名前ではいけないのか、甚だ疑問が残った。伴侶の代わりに持参した等、一言も告げていない。

 先日、新聞の投書を読んでいたら、似たような出来事があって苦笑した。こういったことは、何時の時代になっても変化はないな、と厭きれてしまった。何が平等で、何処が新しい考え方なのかが分からない。昨今は物事をうやむやにする遣り方が、流行っているのだろう。言葉つかいの微妙なこともある。

 図書館で借りた中に、介護のことばつかい、というのがある。日頃から、普通に物を言い、会話ができればいいと思っているので、書評を見て予約してしておいた。いただきます、に閉口していることもあり、自分が納得できる介護をしたいからだが。それには声音が大きいか、小さいかにも由るんだが。

 月も、同じように満ちて欠けていくのだが、中秋と呼ぶ頃の月は、大気も澄んでくるので美しい。

コメント
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