地震の起きた時だけ、大騒ぎをしているが、日本の国は海の上に浮いているようなもので、そういったことは、いつ何時起きても不思議ではない。況してや、人間の愚かなる行動が、それらを助長していることは否めない。気づこうとしないだけに過ぎない。地球は物言わぬと考えるのが間違い。
命あるものを生み出し、命を絶つこともする。どんなに抗っても、これこそ自然の成り行きだろう。宮部みゆきさんの、新聞連載小説を日々読みながら想える。人のせいにしてはならない。人類は、余りにも強欲であり、自分勝手な生き物であろうか。神は等しく、示してきたのだが気づかず…。
枇杷を口にしながら、歪な形のや、小さな儘のを剥いていくと、そこには自然からの警告が隠されている。見た目で判断するのも好し。然し、自分の心に正直になれば、向こうも教えてくれることが多い。江戸時代はおろか、卑弥呼の時代に戻れと、足掻いているのではないが、失った物は大きい。
時代の先端をいくのが素晴らしい、という者もいよう。半面、何だか違和感を持ち、心に打っ曲した想いのある者もいよう。人間は、どちらが正しいとか、間違っているとかでもないのだ。その個々の生き方に依って、自然から学べること、悟っていくことが増える。考え方は一律ではないのだ。
枇杷も、我が家で植えて生った物だから、自分が堪能すればいいのかもしれない。無理に宅配してまで、送ることもないのだし、想いを馳せても必要ないのだ。言葉では言い尽くせない想いが、相手に届いたり、或いはまた、季節の便りを感じてくれれば、と迷惑を顧みず贈る次第。それも生き方で。
難しいことは分らないが、明日の我が身を知っているとしても、誰にも告げることは不可能だ。一年に一度であろうとも、枇杷で便りを想ってくれれば有難い。着いた枇杷の箱を開けて、田舎の風を感じてくれれば、とも思う。身勝手な感じ方でしかないが、遠くであり持っても行けないのである。
淡路田中は、採るのが一週間早かったようだ。淡路島では、枇杷狩りが始まっているが、こちらでは幾分遅れることを思慮していなかった。サンタさん、酸っぱさが強いでしょう。残ったのを捥いでみたら、甘酸っぱさが程々でした。その年にも依るので、採るにもタイミングが。珈琲は美味しい。
今年は、霜にやられてしまい、苞は見えずで、新芽が出ては枯れて哀れである。枇杷葉は毎年異なる。