二十四節気 芒種 芒(のぎ)のある、穀類の種を蒔く、大切な時期なので、芒種と言う。毎年、六月六日頃である。麦刈りも真っ最中で、田植えの準備も着々と進んでいる。農繁期の頃には、夕ご飯は遅くなり、腹も空くが何もない。母親か祖母かが、田畑で一段落つけるかであった。風呂焚きも水汲みから。
ひもじさは何時もだったが、この時期には野苺も、山桜桃もグイビも熟れず、桑の実だけが紫から黒くなって、足元に用心しながら採った。給食は美味しかったが分量は、決まっており、パンもミルクも不味い。その頃は脱脂粉乳で、強引なアメリカの押し付けで、栄養も何もない物だった。厭で堪らなかった。
枇杷葉が相当に傾いでいる。摘果していないので、鈴生り状態である。明日、少し袋を開けてみよう。通勤途上の民家でも、畑に生った枇杷が、たわわに群れている。袋を掛けていないのでよく分かるが、野鳥の餌になるのだろうか?つい他所様のことなのに気が揉める。明日は、旧暦の端午の節句。菖蒲湯を。
101は実写版。クルエラの悪役と、その手下の演技が巧くて、捧腹絶倒した。犬の演技にも関心したが、そこは映像だし賢い犬を選んでの事。アニメとは二味程の違いがあり、お買い得のDVDだった。今後は、フィガロの結婚、トスカ、蝶々夫人も検討中。舞台を観たのは、フィガロの結婚とトゥーランドット。
チケット代も莫迦にならないし、そこまでの旅費も掛かる。御薪能も奈良には足を運んだが、葵上を観る機会を逃した。南大門での御能には、金春流・観世流・宝生流・金剛流が演じ、狂言も加わり、衣装の妖艶な姿に圧倒される。日本の伝統も棄て難い趣で、通い詰めた時もある。取敢えずは出不精なのです。
出不精にも、目的があったり、拘りが講じると、矢も楯も堪らずとなって、用意万端にして出掛ける。テレビを観るしかない人生よりも、自分で納得したかった想いも強かった。歳を重ねると、行きたくても億劫が勝つので、犠牲になるものも増える。外れれも多くあり、行動も狭まる。赤穂浪士は歩けて正解。
暁子さん用に決めた枇杷葉。早、亡くなられて3年経つが、まるで予期していたかのように実が。