戦後、物資不足の時代が過ぎれば、外出して何か食べて帰るというのは庶民の最大の娯楽だった。町場のレストランが少なかった時代、予備知識を持たないお父さんが安心して家族を連れて行けたのは、百貨店の大食堂か、もしくは道頓堀や上野にあった食の殿堂=食堂ビルではなかったか。
食都大阪を代表する道頓堀には昭和24年、いち早く「くいだおれ」が開店。追うように昭和30年「ドウトン」が開業。今も旧浪花座向かいにはドウトンビルがあり、モザイク風のタイル張りのビルは新歌舞伎座や日生劇場と同じ、村野藤吾設計らしい。コマソンで知られた千日前の「千日堂」というのもあった。
またひとつ大阪の歴史が消える…との新聞の論調もあったが、たかだか60年。道頓堀の歴史から見たら、ほんの60年とも言える。ならばなんで中座閉館の際に騒がねぇんだ!
幼少の記憶によると、くいだおれ人形の後方左上でグロテスクな黒豚
の丸焼き人形が廻っていた! このロイド眼鏡の人形といい、このセンスはやはり常軌を逸している。
黄色い名札は何かと見ると・・・各地の産物だった!
“地場産品応援の店”の提灯が吊られ、全国の食材が札に列挙されていた。
そういう地元素材を応援するのと、ギンギラギンのイルミネーションに
くいだおれ人形の派手なストライプが不思議な対比を見せていた。まさにキッチュ、そういう意味でなくなるのは惜しい。
ともあれ、高度成長期に差し掛かる頃、猛烈な大衆の食い気を満たさんがために食堂ビルは林立した。パパはビールに水炊き、ママは八宝菜、お嬢さんはスパゲッティ、坊ちゃんはビフカツ…と、和洋中なんでもござれだったことが最初は呼び物となり、専門料理の時代になるとその看板が重くのしかかったのは事実だろう。
東京にもそんな時代、一軒の食堂ビルが存在した。
昭和34年、上野の西郷さんの銅像下にできた「聚楽台」がそれだ。
上野は東北からの玄関口で、集団就職列車の終着点だった。迎えに来た商店主たちに手を引かれるように、中卒者たちは上野に降り立ち、ここ聚楽台でまずメシを食わせてもらったという者も、少なくない。
どこかに 故郷の 香りを乗せて
入る列車の なつかしさ
上野は 俺らの 心の駅だ
くじけちゃならない 人生が
あの日 ここから 始まった
(昭和39年「ああ上野駅」 井沢八郎)
それにしても「聚楽台」と名乗るセンスはスゴイ。太閤秀吉の聚楽第
からのいただきだ。
金の卵とは経営者側の勝手な言い分である。そうおだて上げ、勘違いさせて、結局のところ安い賃金で過酷な労働が待っていた。
集団就職列車は農村漁村と都心を結び、莫大な労働力を送り込み続けた。そんな彼ら一人一人が歯車となって、戦後の高度成長は推し進められて行った。
聚楽台のメニュー「西郷丼」。
(畏友K隊長、画像お借りしました…)
さつま芋天ぷら、角煮、さつま揚げ1/2、鶏そぼろ、明太子、ほうれん草に温泉卵。税込¥924
う~ん、関西人には手が出ませぬ。
この色彩…おかんの弁当のようや。
すでに貪欲にメシを食らった大量消費の時代は過ぎ去っている。
今は、料理人の顔の見える小さな店で、少ないお客に上質な料理を提供する時代といえるのだろう。この4月に「聚楽台」が、7月には「くいだおれ」がその歴史に幕を閉じる。
東西で同種の綜合食堂が閉店するというのは偶然の符合ではあるまい。どちらが持ちこたえることができるか、という我慢くらべの数年だったのではあるまいか。よくぞ今まで続いたとも思う。
戦後日本の青春期ともいえる高度成長の遺物が、また一つ、
思い出となって行く。
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