フルートおじさんの八ヶ岳日記

美しい雑木林の四季、人々との交流、いびつなフルートの音

志野・織部の里を訪ねる

2012-11-10 | 趣味

大阪で法事や同窓会、夏山登山反省会などを済ませて、今日は2週間ぶりに清里に戻る。幸すがすがしい秋晴れに恵まれた庭や山々の紅葉はどこまで進んでいるであろうか。おそらく、ほとんど紅葉が終わっているかもしれない。との、期待感が高まる。

山梨へ戻る途中には、信楽焼や伊賀焼き、瀬戸焼き、美濃焼きなど焼き物で有名なところが多いが、瀬戸焼きや美濃焼きを訪ねたことがなかった。今回は、美濃焼きを少し見てみることにした。

中央道多治見ICでおりて、先ずは「美濃焼きミュージーアム」を見学する。

5世紀の須恵器、9世紀後半の灰釉陶器、12世紀から15世紀の無釉の山茶碗、桃山時代の瀬戸黒、黄瀬戸、志野、織部に代表される桃山陶。同時期に盛行した茶の湯に合わせて、数多くの茶陶が生産された。

黒釉のみで歪みを加えたり沓形に作られたものは「織部黒」と呼ばれ、文様を施し装飾するものを「黒織部」と呼び区別されている。
文化・文政年間に始まった磁器生産は、明治になると、摺り絵(すりえ)や、銅版(どうばん)転写による大量生産が始まった。などの解説を読みながら作品を鑑賞した。

その後「志野・織部 道の駅」に寄る。

地元の農産物や土産物とともに、焼き物が売られている。少しショッピングをしてからレストランに入って名物の「おひつまぶし」定食を食べる。小さなおひつに、ウナギご飯が盛られていて、最初は、そのまま食べ、次は、海苔、葱、山葵を載せて食べる、最後は、味付けされたお茶をかけてお茶漬けにして食べる。美味しく楽しい食事だった。

食後は、近くにある「織部ヒルズ」という、広い敷地に美濃焼の卸店が一堂に会したところを見る。なにしろ広いので、今回は入り口近くの店だけに絞って焼き物を楽しんだ。安いものから高価なものまで、色々あり、大阪の道具屋筋よりも遥かに品数が豊富で、しかも安いのが魅力である。

午後2時過ぎまで美濃焼きを楽しんでから、中央道をゆっくり走る。諏訪SAを通過するとき見た夕暮れの八ヶ岳は、ひたすら美しかった。(車を止めて写真を撮るべきであった)
アダージョの森に到着したころにはすっかり暗くなってしまっていた。


吉野みたらい渓谷の紅葉

2012-11-08 | 山登り

ご近所のNさんから、吉野のみたらい渓谷の紅葉を見に行きませんか、というお誘いがあった。みたらい渓谷は関西では有名な紅葉のスポットだが、これまでは行ったことがなかったので、お言葉に甘えて、ご一緒させていただいた。

南阪奈道路を通って、下市口から、大峰山の麓、洞川を目指す。以前は、深い山の中の道路を幾重にもくねりながらバスで行ったことがあるが、現在では、虻トンネルなどが開通して、実に走りやすい道になった。自宅からは1時間30分ほどで、観音峰駐車場に到着した。

みたらい渓谷を楽しむ前に、つり橋を渡って、観音峰を目指す。

ここには南北朝の戦いの史跡が数多く残されている。ご一緒させていただいたNさんは、私たちより少し年上のご夫婦だが、日ごろからプールや体操教室に通っておられるだけではなく、月に何度かハイキングをされているので、健脚そのものの軽やかな足取りだ。

登山道に沿って、南北朝の歴史が簡略にまとめられている石碑があり、ちょっと休憩して、それらに目を通しているうちに、神社跡についた。

「正平七年(1352)、吉野朝廷の人々が夢見た京都奪回がついに実現いたしました。が、それも束の間のこと、再び北軍が巻き返し、南軍北軍めまぐるしく京都を奪い合い、結局北軍の勝利に終わりました。 この後、後村上天皇に崩御し、長慶天皇が即位されました。さて、南朝軍の柱である楠木正儀が甘言に誘われて突然幕府方に寝返ったことから、長慶天皇は皇太子煕成(ひろなり)親王に三種の神器をもたせ、吉野の奥深くにお隠しになりました。その後楠木正儀をはじめとする幕軍の攻撃により、天皇もまた吉野の奥へと遷幸され、天川郷位衆傳御組はこれを警護し奉って河合寺の黒木御所に迎えました。そして、郷民をあげて長慶天皇や煕成親王らを坪内の御所ノ坊、沢原の光遍が、野川勢を中心とする逆徒が執拗に襲来したため、これを迎え撃って戦いをくりひろげました。この戦いで河合寺は焼失し、長慶天皇や煕成親王は観音の岩屋に避難されました。が、ここまでも追手があり、天川郷士たちはこれを撃退し、尾根づたいに洞川の龍泉寺へとご案内申し上げたのでございます。」

そこを少し登ると、大きな岩があり、

その岩の下に「観音の岩屋」があった。内部は暗くさほど広くなかった。

そこから来た道を駐車場まで戻り、昼食を取る。食後は、みたらい渓谷を下る。道は最初は杉林の平坦な道をたどり、その後、渓谷に沿って道を下っていく。

見るものを圧する巨岩、緑の縁、

それに黄色から真っ赤までのさまざまな色あいに染まったもみじの数々、その美しさを堪能する。

1時間ほど歩くと、自動車道に下りてきた。ここで川は分かれており、みたらい渓谷は河合方面にも続いている。

駐車場へ戻る道は、少しきつい階段を登らねばならなかったが、それを登り切ると平坦な道となり、観音峰駐車場に戻ってきた。

丁度夕食前に自宅に帰ってきたこともあり、その後は、Nさん宅で、夕食をご一緒した。車好きのご主人の車の話しあり、iPS細胞の山中教授の話あり、音楽の話ありと、いつも通り面白い会話をたっぷり楽しませていただいた。


丸谷才一「女ざかり」を読む

2012-11-04 | 濫読

英文学の翻訳、幅広い文芸評論で知られた作家、評論家、英文学者で文化勲章受章者の丸谷才一さんが、10月13日亡くなった。87歳だった。

68年に「年の残り」で芥川賞を受賞したあと、72年の「たった一人の反乱」など10年おきに長編を書いてきたとのこと。今まで、気になりながらも、全く読んだことのない作家だったが、亡くなったなったということもあり、93年のベストセラーだった「女ざかり」を読んでみる。

念願の論説委員になった新日報社の南弓子は社会部出身の文章が書けない浦野を手助けする一方で、初めての社説を書いた。だがその社説は水子供養で儲けている、ある宗教団体を怒らせてしまい、そこから巨額の援助を受けていた政府与党の幹事長・榊原の圧力で、弓子は左遷を言い渡されることに。だが、彼女はきっぱり拒否。弓子を説得できないとなると、今度は、その新聞社の新社屋建設における国有地の払い下げに、待ったがかかる。彼女をなんとか助けようとの動きで話が展開するが、話がもつれそうなところで、意外なところから事態は解決した。全てが解決すると、弓子は、新聞社を辞めたくなってきて、年度末に退社することになる。結末は、(言わないが)、やや白けるかんじだが、、表題通り45歳の弓子は、今後も力強く生きていくだろうという感じだ。

ストーリーの展開の合間に色んな登場人物、新聞人、日本史の大学教授、官僚、哲学の教授、書家、政治家、女優などが、さまざまなウンチクを披露するのが面白い。
それ以外にも、「山鳥色の紬の一つ紋」「ひは茶の帯締め」の色、「絵志野の四方小鉢」「染付の猪口、久谷の猪口、黄瀬戸の猪口」などの色と形、あるいは「サニーレタス、アンディーブ、白ネギ、完熟の赤いトマトのサラダ」のアンディーブの味と料理レシピなどに興味がいったりして、読み終わるのに時間がかかったてしまった。

「丸谷さんが嫌ったのは、やたらに暗くて深刻ぶる態度、じめじめと湿った感情的な文章、偏狭なまじめさやえん世的な世界観だった。…逆に、知的な市民生活や明るい笑い、健全な楽しみや品のいい態度を好んだ。」(毎日JP)と言われるのが、少し分かったような気がする。