貞観御時(じょうがんのおおんとき)に万葉集はいつばかり
つくれるぞと問はせ給ひければ詠みて奉りける
文屋ありすゑ
神無月時雨降りおけるならの葉の 名に負ふ宮の古言ぞこれ
(半切縦1/2大)(画像処理でフィルター掛け)
高野切第三種(古今和歌集)の練習を続けています。
根元からおろした小筆を使用しました。
拙ブログで藤原行成筆「白氏詩巻」を臨書したときと同じ筆です。
(2021.3.8付“集賢池”及び3.15付“八月十五夜”)
今回は“詞書(ことばがき)”を書きました。
最初の段階で、半紙でこの高野切の練習をしているとき
『万葉集』という漢字が目に入ってきました。
思わず“オオッツ”と声を出しました。
四季折々の花鳥風月や恋の歌と違って、
“万葉集はいつできたのか?”と、その成立時期をストレートに問い、
それに答えた珍しい歌ではないかと思ったからです。
作者の「文屋ありすゑ」は生没年など不詳で、しかも彼の歌は本歌集ではこの一首のみとのことで、
撰者たちには何らかの意図があるでは、と思われるところです。
そもそも古今和歌集においての『万葉集』は、
先の拙ブログ「やまとうたは・・・(2020.4.27付)」で記しましたように、
その仮名序の冒頭書き出し「やまと歌は人の心を種として、よろず(万)の言の葉とぞなれりける。」と、
何やら万葉集を連想させる表現から始まっています。
また仮名序を、本居宣長訳などを準拠に読み進めていくと、
「昔から伝わってきていた和歌は『奈良の御時』より広まり、
その代表的歌人として柿本人麻呂と山部赤人をあげ、
この二人のほか、更に先の人々の歌も集めて『万葉集』と名付けられた。」
とあります。
つまり仮名序で万葉集ができたのは奈良の時代と記述されているのを、
具体的に詞書も入れた和歌として記したのがこの歌ということではないかと。
先の撰者たちの意図もここにあったのではと、
古今和歌集や和歌などについては、こういう書道を通じてしか知らない藤四郎が、
勝手に類推している次第です。
さてさて本歌や詞書の意味ですが、手許の例解古語辞典(三省堂)には、
「名に負ふ」と「古言(ふるごと)」の二カ所で、
この歌を例歌として使われていました。有名なのでしょう。
それらなどによりますと
“神無月(陰暦10月)時雨降りおける”はこの和歌を詠んだ時の風物であろう、と、
“楢”と奈良は掛詞、“名に負ふ”は名として持つ、
“古言(ふるごと)”は昔の話や詩歌、昔話。また古歌。
最後の“これ”は万葉集
・・・・ということのようで、ストレートな問いに対し『奈良の時代』と簡単に答えればいいものを、
そうはせず、
歌心のない自分には何ともまどろっこしい答えとなっています。
まあ、和歌とか文学とかはそういうところもあるのでしょう。
詞書もみていきますと、ここでは年代がポイントになるようです。
以下、アバウトながら、
奈良時代(710~794年)の末期に万葉集ができ、
平安時代になり(795年)、貞観(じょうがん)(859~877年)の御時は、
おもに、のちに清和源氏の祖とされる清和天皇。
醍醐天皇による古今和歌集編纂の勅命が905年、成立が914年頃。
遠い、遠い昔のこととて時間の尺度が判りにくくなっていますが、
古今和歌集が出来た914年頃を起点とすれば、
単純計算で、万葉集は約120年、貞観の御時は約50年、それぞれ前のこと。
これを、今年2,022年を914年に置き換えれば、
約120年前(1,900年 明治33年)は日清戦争と日露戦争の間で自分の祖父母の時代、
約50年前(1,972年 昭和47年)は沖縄復帰の年。
いわば、令和の時代に編纂された文書の中に、
昭和の時代に“〇〇集は何時できたのか”とのご下問があり、
“それは明治の時代です”と答えた、ということです。
遠い遠い昔も、その相互間はそんなには離れていなかった、という話でありました。
私の説明がまどろっこしくなってしまいました。お許しあれ。
「ことばがき」に記された内容など注意したことなかったですが、説明受けるとまたまた蘊蓄が増えたようで、賢くなった気分です。
説明文を読んで細筆を根元からおろしたとあり、再度確認をしたところ、太筆で強く抑えたような強弱はなく、ほぼ均等に流れるように見事に描かれていることに気が付きました。
良く分かりませんが、この場合、力の入れ具合(抜き具合)が難しいのだろうと思いました。
それぞれの歌集が出来たのを、約1000年前に
約100年の間の問答があったと言うことですね。