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水月亭のご了解で「右京のむだ掘」の顛末を紹介するが要約によって原文を損なっては拙いので其の侭を転載する。黒岩からスルスに向う終盤で空沢を渡って少しの樹幹に「左100㍍」とテープ貼りして置きました。尚、この話は倉賀野出身の郷土史家 故・前沢辰雄氏の執筆で「上州の史話と伝説・群馬編」に極めて説話タッチで載せられている。勿論、当然の事として「前沢辰雄遺構集」にも。
「榛名山の昔、むかし」
水月亭別館の主人(野口正雄氏)が、長年にわたり資料を集めたものを紹介していきたとおもいます。
右京のむだ堀
榛名湖畔から伊香保方向に進み、沼の原をぬけ、富士見坂に、さしかかる右方向相馬山の裾に岩山がある。頭部が大小四つに分かれているが、見る方向により形が、変化するこの岩山を磨臼岩(スリウスは、モミをすって皮を取り去る農道具)摺碓岩、磨墨岩、メガネ岩等々であるが、地元ではスルス岩と呼んでいる、スルス岩を東南面に回りこむと数ヶ所の岩室がある、この岩室は修験者の修行の場と伝えられている。尾根続きに黒髪山(相馬山)が聳えており修験道場があったという、スルス岩の裏側(南側)を少し下ると岩穴がある、初代高崎藩主大河内右京太夫輝貞の掘った右京の無駄堀、右京の馬鹿堀と言われるものである。
(註)
榛名山地域を始め、伊香保、吾妻郡東村岡崎新田辺りまでは、松平右京と呼んでいたようである。
松平右京は領内十一ヶ村の農民が、長年にわたり深刻な、水不足に悩んでいる現状を見つめ、この解決に力を尽くそうと、調査を重ねた結果、これを解決するには、榛名湖の水を白川に落とす方法が最善の策と考え慎重に計画を進めた、準備もようやくにして整い、この計画を、農民に伝えた、農民は領主の計画にいたく感謝し、事業達成の為に進んで労働奉仕を申しでたと言う、やがて、スルス岩隊道の掘削が始まった、村人達は交代を繰り返し、繰り返し工事を進めたが、思いの外、難工事となり落盤や土砂の崩落等延々として進まなかった。農民の疲労は重なり、数多くの死傷者が出るようになった折りしも高崎藩の、取水計画を知った岡崎(吾妻郡東村)代官岡上景能は、猛然として、反対運動を起こし水騒動となった、(当時岡崎はすでに榛名湖の水を沼尾川から取水をしていた)右は、騒動の拡大して行く事を憂いて、工事を、中断するのも止むなきにいたつたのである。しかしながら、工事再開の決意は固く事業達成への道は険しくとも必ずや完成させることを、農民に伝え中止することを決定した。
右京は不遇にも翌年越後村上藩へ転封となり、再び工事が始められることはなかった。
後に農民達は、死んだ者や、怪我をした者が馬鹿を見た、一生懸命になって働いたことが無駄になって仕舞ったといつて嘆いたという、この事が右京の無駄堀、右京の馬鹿堀となって伝えられている。
(榛名町の伝説)要約
大河内右京太夫輝貞によって、榛名湖の水を取水し、領内上芝村、下芝村(箕郷町)、行力村(高崎市)保土田村(群馬町)を、始めとする十一ヶ村の水不足を解決しようとスルス岩に隊道を掘削、其の規模は高さ1m横3m深さ4m50(記録されている)とある右京の取水計画にたいし吾妻郡東村岡崎新田(天領幕府領)の代官岡上景能から猛然と反対訴訟がだされた、其の要旨は榛名山御手洗水は飲水に使っていて余水はない事、余水吾妻川に流入、とは偽りでこれは伊香保の湯尻や湯中子の呑水の余水であること、水上で分水されては人馬は勿論田畑が枯れて迷惑である等々である、この反対の背景には、当時岡崎が天領であることのようである。
高崎藩の計画の(取水)願書の提出が宝永5年(1708)春頃と思われる、岡崎村からの訴訟はその直後とおもはれ、同年8月9日両者立会いで現地測量の結果が報告され、幕府評定所より両者の呼び出しが同年11月13日、裁決書が11月25日だされいる
裁決書
1、箕輪方拾壱ヶ村へ余水を引く分には岡崎新田の障りとはならない
1、新溜堤を作り、岡崎新田村の大きさは、内側幅三尺、高さ一尺八寸の樋二つ、樋の底は壱っ岩から
九丈壱尺二寸五分とし、一尺七寸の差をつけて、岡崎側の取水が困らないようにする
1、普請はすべて拾壱ヶ村側、岡崎新田は立ち会うだけとする
以上のような裁決が下された、この裁決はすでに沼尾川から取水していた、岡崎新田に有利となっているが高崎藩も取水が出来るようになっている、溜堤から取水、榛名富士の北を廻りスルス岩の下に隊道を掘り白川へ水落とすこの工事の始まったのが宝永6年春のようである、翌年宝永7年5月、大河内右京太夫輝貞は、越後の村上藩へ転封となり工事は中止された、享保2年(1717)2月大河内右京は再び高崎藩主に復帰工事の再開を考えたようであるが藩領十一ヶ村の内、上芝村、下芝村、保土田村、行力村の四ヶ村の天領となっており支配条件が変わり工事の再開は断念したようである
(岡崎伝承伝説伝記文書)要約
榛名湖の東南にある、外輪山のひとっ磨墨岩の真下を、箕郷側から榛名湖に向かって黒びかりする固い岩石を砕いて高さ1m30cm、幅1m弱、深さ20m位の穴がある、これが右京のむだ堀、右京の馬鹿堀と言われるものである、高崎藩主大河内右京太夫輝貞を後立てとする十一ヶ村の村の人達が、榛名湖の水を引くために掘り始めたのが元禄15年(1702)と言われている、これにたいして岡崎住民は実力行使をもって立ち向かったが決着はつかず御上の裁断を仰ぐことになった、いわゆる宝永5年の御水論であるが、同年十一月二十五日岡崎村の内容的勝訴となった、輝貞はどうにも諦められず更に入用金を出して掘らしたのであるが、翌年宝永七年(1710)越後村上藩に左遷されたのであるが、輝貞の御処替に依って、工費の出なくなった十一ヶ村側は工事を中断する外なかったのである、享保元年(1716)八代吉宗が将軍となり、姻戚関係にあった輝貞が高崎藩に呼び戻された然し輝貞が戻った、享保元年に十一ヶ村の内、上芝村、下芝村、行力村、保土田村の四ヶ村は永年の掟を無視して、自由に引水する様になり、享保二年には水騒動が繰り返された、これを見かねた高崎藩と幕府代官馬場源兵衛とが中をとって、和解を計り、同年十月二十五日証文を取交した記録が箕郷町に残っている、岡崎住民にとって、右京太夫こそ憎むべき存在であったが関東平野の一角に広がる広大肥沃の水田を持ちながら水不足に苦しむ農民を見兼ねた本当に領民を愛した名君であったと思われる
一つ岩のこと
高崎藩によって、榛名湖からの取水計画願書の提出のあったのが宝永五年(1708)春頃とおもはれる岡崎新田村から訴訟の起こされたのが同年同じ頃とおもはれる(榛名町の伝説)、同年八月、幕府の役人の指導にて、高崎藩、及び岡崎新田、両者立会いで測量が実施されたが其の時の測量基準点となったのが一つ岩である(岡崎文書)、一つ岩のある場所は、伊香保方向から湖畔の商店街をぬけ沼尻まで進むと、湖の水辺に沿って堤防が築かれている堤防を右に見て、少し進むと道路左側(右側にホテルセゾンドハルナがある)に一つ岩の由来の立看板がある隣に、文化財一つ岩と書かれた枕木が立っている、立看板の後ろのカラ松林を登って行くと一つ岩と書かれた枕木が立っている、側面に
昭和五十一年六月十五日指定とある
壱つ岩の由来
高崎藩上芝村ほか十一ヶ村は、水利の便が悪く、榛名湖の水を、白川へ落として用水にしようと計画し工事を起こした、これに対し、代官岡上氏によつて、沼尾川を唯一の水源として、たかや堤を切り開いて生活してきた岡崎の農民の猛反対が起こり、遂に訴訟となった、まず、測量と実態調査が幕府役人の指導で両者協力の下に裁決があり、高崎藩への取水方法が指示され、岡崎側により一尺七寸の高さを保べきことが命じられた、高崎藩の事情と難工事のため断念した、この原則は今日に至るまで厳として、生かされている、其のときの測量基準点がこの一つ岩である。
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