
先日、梓山に行くときに榛名湖北岸で「壱っ岩」を見たが、此れは今から三百年前の榛名湖からの取水を巡る吾妻・岡崎と高崎藩十一ヶ村の水騒動の裁定測量基準点である。この時、高崎藩大河内右京太夫輝貞、通称松平右京が榛名湖の水を白川に落とそうとして工事半ばで挫折したトンネル跡がスルス岩下にあると聞いて、それを探しに行くことにした。
水騒動に付いては研究者・水月亭ご主人の野口正雄氏ご子息の了承を得られたので別項で紹介する。
今日は28号線で黒岩下の鷹ノ巣林道入り口に急ぐ。祭日なのに日頃と変わらず採石場のダンプが狭い道を我物顔で来るので下り優先のすれ違いに気を使う。何時もの空き地に駐車して短足でゲートを漸く跨ぎ、旧黒岩キャンプ場への道に左折して、暫くで右に入って白川源流の左岸を登る。四つ目の堰堤をみたら右下に下り「デ・ケーレ」の記念碑を経て
対岸の土手を登って熊笹の高原の道を行く。最近は目印テープの満艦飾で何種類もが付いているので踏み跡のハッキリしない登りも何の問題は無い。やがてツツジの群落が続き標識とテープに誘導されて右の台地に移るが、今度は掘り切り状の広い道、ツツジは相変わらず。左写真は登山道途中から見えるスルス岩。
暫くで中腹を左の下目に巻くと直ぐに大きなカラ沢、テープに依って左岸に渡るともうスルス岩が近くに見え、東から取りつく形となる。一寸登り難い急登を一息で難なく関東ふれあいの道到着。丁度湖からの道との三叉路で標識もある。ここまで1時間廿分。
早速、スルスの後ろに廻ろうとしたら親切にも新しい「行人洞」の案内板があつた。この岩室は相馬山の修験道場跡らしいが今まで知らなかった。スルスの裏への踏み跡を辿ると直ぐに大きな洞窟があり入り口に「普光院豊山行者墓」、中には石像もあつた。此方の目的はトンネル跡の発見なのでスルスの南淵を西まで一回りするが、二つの洞窟を発見しただけてトンネルは見つからない。30㍍づつ下がって幅150㍍を往復して探索。約30分で一旦中断し落ち着くため昼食・休憩にした。
再開後、1時間かけ200㍍下がっても見つからず全く進退極まる。これが失敗すれば梓山に続いてニ連敗になるからだ。ふと、水落しだから沢筋だと閃き、何本もある沢の一本一本を遡って探索。更に30分後、スルスから東南に300㍍下の沢のドン詰まりで遂にトンネル跡を発見。高さ約1メートル程、横は少し広い穴が真っ直ぐ進んでいて
感じでは数10㍍と思えるが上からの滴り水が入り口から溜まって中には入れない。周辺には何の標示も無いので上から来たら絶対に気づかない場所。テープで目印を付け其処から百㍍東の登山道にこの奥に「むだ掘」と標示する。ここでは参加した農民たちにも工事犠牲者が多数出ているのだから、何か顕彰すべきだと思いつつ下山した。帰宅後、水月亭に電話して発見の報告と引用の許可を頂いた。
関東ふれあいの道到着

行人洞内部の石像

行人洞入り口の「円頭光」を頂く磨崖仏線彫り

発見した「右京のむだ掘」入り口

失敗の話ばかり残された右京殿、実は大人物である。素性からして「知恵伊豆」と言われた松平信綱の孫、妻は柳沢吉保の娘。10歳で五千石の家督を継ぎ、家綱から家重までの六代の将軍に仕えて七万二千石大名として重用された。武具の開発に実績があり新式鉄砲の開発もやったし、刀剣の柄の「右京拵え」にもその名が残る。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
水騒動に付いては研究者・水月亭ご主人の野口正雄氏ご子息の了承を得られたので別項で紹介する。
今日は28号線で黒岩下の鷹ノ巣林道入り口に急ぐ。祭日なのに日頃と変わらず採石場のダンプが狭い道を我物顔で来るので下り優先のすれ違いに気を使う。何時もの空き地に駐車して短足でゲートを漸く跨ぎ、旧黒岩キャンプ場への道に左折して、暫くで右に入って白川源流の左岸を登る。四つ目の堰堤をみたら右下に下り「デ・ケーレ」の記念碑を経て
対岸の土手を登って熊笹の高原の道を行く。最近は目印テープの満艦飾で何種類もが付いているので踏み跡のハッキリしない登りも何の問題は無い。やがてツツジの群落が続き標識とテープに誘導されて右の台地に移るが、今度は掘り切り状の広い道、ツツジは相変わらず。左写真は登山道途中から見えるスルス岩。
暫くで中腹を左の下目に巻くと直ぐに大きなカラ沢、テープに依って左岸に渡るともうスルス岩が近くに見え、東から取りつく形となる。一寸登り難い急登を一息で難なく関東ふれあいの道到着。丁度湖からの道との三叉路で標識もある。ここまで1時間廿分。
早速、スルスの後ろに廻ろうとしたら親切にも新しい「行人洞」の案内板があつた。この岩室は相馬山の修験道場跡らしいが今まで知らなかった。スルスの裏への踏み跡を辿ると直ぐに大きな洞窟があり入り口に「普光院豊山行者墓」、中には石像もあつた。此方の目的はトンネル跡の発見なのでスルスの南淵を西まで一回りするが、二つの洞窟を発見しただけてトンネルは見つからない。30㍍づつ下がって幅150㍍を往復して探索。約30分で一旦中断し落ち着くため昼食・休憩にした。
再開後、1時間かけ200㍍下がっても見つからず全く進退極まる。これが失敗すれば梓山に続いてニ連敗になるからだ。ふと、水落しだから沢筋だと閃き、何本もある沢の一本一本を遡って探索。更に30分後、スルスから東南に300㍍下の沢のドン詰まりで遂にトンネル跡を発見。高さ約1メートル程、横は少し広い穴が真っ直ぐ進んでいて
感じでは数10㍍と思えるが上からの滴り水が入り口から溜まって中には入れない。周辺には何の標示も無いので上から来たら絶対に気づかない場所。テープで目印を付け其処から百㍍東の登山道にこの奥に「むだ掘」と標示する。ここでは参加した農民たちにも工事犠牲者が多数出ているのだから、何か顕彰すべきだと思いつつ下山した。帰宅後、水月亭に電話して発見の報告と引用の許可を頂いた。
関東ふれあいの道到着

行人洞内部の石像

行人洞入り口の「円頭光」を頂く磨崖仏線彫り

発見した「右京のむだ掘」入り口

失敗の話ばかり残された右京殿、実は大人物である。素性からして「知恵伊豆」と言われた松平信綱の孫、妻は柳沢吉保の娘。10歳で五千石の家督を継ぎ、家綱から家重までの六代の将軍に仕えて七万二千石大名として重用された。武具の開発に実績があり新式鉄砲の開発もやったし、刀剣の柄の「右京拵え」にもその名が残る。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。

※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます