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榛名南面の残雪も消えた様に見えるので高山村に向かった。目的は
金井竹徳著「山霊への紀行」の後追いで本宿観音山の磨崖仏見物。
明保野信号を直進して北群馬橋を渡って353号線、ここで133円/Lの看板を
見て満タン給油、地域の組合からのお達しで仕方なく値下げしたと店主殿は嘆く。
ここから36号線の三国街道を北上する。
この街道は東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道に対して
「脇街道」、主な目的は佐渡金山から江戸への金の輸送だった。1624年に
参勤交替が始まると長岡・村松・与板・新発田・村上各藩の指定路線。
謙信の時代にこの整備が出来ていたら関東の戦国史は変わっていたかも。
中山峠で一休み。目の前の小野子山の北面には残雪、小野子山は奥に
見える山で手前は前峰だろう(10.43)。
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ゴルフ場を左右に見て高山村を下りに入り、途中から右への脇道で本宿へ。
直進すれば新田の中山信号だが、ここには400年来の因縁が在る。
中山宿が三国街道の高崎から6番目の宿場として本宿に町立てされたのが
1612年頃、当初は本宿・平形丹波家・平形和泉家がその役についたが
やがて同族の新田・平形家が本宿の1㌔西に興りその便利さから隆盛した。
そして1864年頃、競争が過熱して「宿縺れ」の状況、これが解消されるのは
明治22年の裁定で新田が本道となつて落ちついた。だが明治18年には
清水越えの国道が出来たので三国街道は一級国道から県道に格下げ、さらに
明治27年からは県道からも抹殺される。地元の懸命な努力で下新田渋川線
として県道復活したのは1949年(昭和24年)の事。閑話休題。
さて、曲りくねった道を進むと小さな本宿の信号四つ角で145号線にぶつかる。
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ここは直進して車一台の細い道、やがてやや広い村道に出るので切り返し
状に左折、途中で早くも路傍の石仏。
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僅かで右手に「中峰山・松禅寺」が見え、路傍に磨崖仏の看板。近くに
駐車して出発(11.07)。
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寺を左に見て畑の中をすすみ、杉林・雑木林・竹林の中を登っていく。
角角に道標が在るので迷う事はないが意外な急登が続きやがて柊の木の
広場。正面に村教育委員会の解説板(11.18)。
ここは雷電神社の堂跡とか。
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金井氏の著書によると1750年代、中山宿・平形家に寄宿して墓石などを
彫っていた信濃の石工・市場源兵衛が暇を見て岩山に観音像・地蔵尊・
不動尊・馬頭観音などを彫ったという。41岩体に99体が確認されて
いるらしい。教育委員会の表示では各記録からこの成立を1773年頃と
しているが。
道標に従って右手に回って竹に掴まって急登すると目の前に岩隗、
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ここから上は岩山。凄い崖なので少し近寄ると沢山の仏像が彫られている
のが見えるが何しろ足場が悪くて容易には近付けない。それに一体が
極めて小さく彫りが浅い。大きなもので縦50㌢ほどだ。
見るのと足場を確保するのと苦労しながらその中での数点を撮影。
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上にも続いているが殆ど絶壁なので無理。
今度は左への踏み跡でそろりそろりと周りこみながら見物。やがて真南に
来たら踏み跡も分からない。仕方ないので上から行けとばかりに崖を
登って松ノ木の在る頂上。ここがさっき見た岩隗の真上だが上からの
見物を試みるも全く歯が立たず。仕方なく左に見える別ピークへ。
古作業道跡を突っ切ってピークに立つが杭一本だけの空振り。
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後は散歩に切り替えてさっきの古作業道を下ると大きい蛇行の後に
先ほどの絶壁前に出た(12.08)。周回路だったのか?
ついでの事に先程と反対の右回りを試みるも岩も少なく仏像もまばら。
広場に戻って左側を探索。
一連の石像物の中に「妙法華一千部供養搭」があり「安永2年(1773年)
の銘、教育委員会の説明はこの年号を元にしているらしい。

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近くの岩に苔の盛り上がりと間違うような仏像や岩のひび割れにしか
見えないものも在る。

一先ず終了として駐車場所に戻る(12.27)。
今度は「中山峰城址」の探訪に向う。ここはかって試みたが失敗して
いたのでリベンジだ。中山城・中山古城は有名だがここは小さな砦跡、
しかも地元の山名は「城山」で峰城とは山崎一氏の命名によるとか。
村道を西に進んで「法信寺」前を通過して中山信号から36号線を北上。
約3㌔弱で右手に派手な「赤根峠ポケットパーク」の看板の反対側が
北山本線林道の入り口、二階山や破風山に行くのにはこの林道を使う。
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幸いにして雪は路傍のみで走行には全く問題はなく、1.7Kで
城址入り口の道標(12.53)。
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入り口からは東電の管理道路のプラ段を使って尾根の急登を進む。
途中で振り返ると子持山の雄大な稜線
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小野子三山の眺めが見事。
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やがてコブ直下でなにやら標柱、蛇行プラ段でこの急登を乗りきると、
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もうそこは城址の南端の筈だが何の表示もなし。彼方に赤白送電鉄塔が
在るので前進すると突然の積雪。だが吹き溜まりで10㌢しかないので
さしたる障害ではない。鉄塔下に着くも城址関連は何もなし、
前回はここで諦めた。
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側面に「東」、頂部に黄色の矢印のコンクリート柱があるのみ。
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良く周辺を調べると北への道跡発見、杉林に突入して暫らくで記念碑
を確認。教育委員会設置の石碑(13.23)。表示はこれだけ。
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「戦国の世に峰城あり この山の名は城山という」と刻まれている。
この位置が本丸相当なので更に北に向うとやがて台地が途切れる。
この北の端が砦正面で新治方面に向かって須川衆と中山衆の抗争に
備えた中山城の見張り場か、のろし台の役割だったらしい。
呆気なく終ったので東北に伸びるデコボコ稜線を辿って水上との境に
ある二等三角点・北城967.86mにタッチすることにした。
残雪と落ち葉が交じり合って滑る稜線を慎重に進み、一つ小ピークを
越えると遥かの彼方に南北の大稜線が見える。多分アレが境界尾根と
判断してなるべく南寄りの残雪の少ないところを選んで小尾根脇を
前進。
稜線に着いたら北に向きが変わって傾斜の少ない頂上台地。
やがて台地の北端に待望の三角点発見(13.48)。
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近くに「界」の標柱が抜かれたように横たわっていた。
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ここからの雪嶺の展望が実に奇麗。
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少し眺めを楽しんでから下山に掛かり、雪と急に吹いて来た冷たい北風を
さけて日溜りの窪地で休憩と遅い昼食。本日の爺イ(14.00-14.15)。
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登り返しの雪が滑るのでやや難渋はしたが、無事に本日の散策終了で
林道の駐車場所。前回、この周辺ではカモシカや暢気に歩く山鳥に
遭遇したが今回は駄目、こんなものしか。
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帰路は中山信号から145号線を西進して中之条の名久田小の辺で
少し登路入り口の探索をし様と思ったら通行車両が少なく飛ばし過ぎで
あっという間に平・横尾を過ぎてしまい何も出来ずに伊勢町下から
東吾妻に抜けていつもの日陰道を使って帰宅。往復走行110K。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
金井竹徳著「山霊への紀行」の後追いで本宿観音山の磨崖仏見物。
明保野信号を直進して北群馬橋を渡って353号線、ここで133円/Lの看板を
見て満タン給油、地域の組合からのお達しで仕方なく値下げしたと店主殿は嘆く。
ここから36号線の三国街道を北上する。
この街道は東海道・中山道・日光街道・奥州街道・甲州街道の五街道に対して
「脇街道」、主な目的は佐渡金山から江戸への金の輸送だった。1624年に
参勤交替が始まると長岡・村松・与板・新発田・村上各藩の指定路線。
謙信の時代にこの整備が出来ていたら関東の戦国史は変わっていたかも。
中山峠で一休み。目の前の小野子山の北面には残雪、小野子山は奥に
見える山で手前は前峰だろう(10.43)。
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ゴルフ場を左右に見て高山村を下りに入り、途中から右への脇道で本宿へ。
直進すれば新田の中山信号だが、ここには400年来の因縁が在る。
中山宿が三国街道の高崎から6番目の宿場として本宿に町立てされたのが
1612年頃、当初は本宿・平形丹波家・平形和泉家がその役についたが
やがて同族の新田・平形家が本宿の1㌔西に興りその便利さから隆盛した。
そして1864年頃、競争が過熱して「宿縺れ」の状況、これが解消されるのは
明治22年の裁定で新田が本道となつて落ちついた。だが明治18年には
清水越えの国道が出来たので三国街道は一級国道から県道に格下げ、さらに
明治27年からは県道からも抹殺される。地元の懸命な努力で下新田渋川線
として県道復活したのは1949年(昭和24年)の事。閑話休題。
さて、曲りくねった道を進むと小さな本宿の信号四つ角で145号線にぶつかる。
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ここは直進して車一台の細い道、やがてやや広い村道に出るので切り返し
状に左折、途中で早くも路傍の石仏。
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僅かで右手に「中峰山・松禅寺」が見え、路傍に磨崖仏の看板。近くに
駐車して出発(11.07)。
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寺を左に見て畑の中をすすみ、杉林・雑木林・竹林の中を登っていく。
角角に道標が在るので迷う事はないが意外な急登が続きやがて柊の木の
広場。正面に村教育委員会の解説板(11.18)。
ここは雷電神社の堂跡とか。
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金井氏の著書によると1750年代、中山宿・平形家に寄宿して墓石などを
彫っていた信濃の石工・市場源兵衛が暇を見て岩山に観音像・地蔵尊・
不動尊・馬頭観音などを彫ったという。41岩体に99体が確認されて
いるらしい。教育委員会の表示では各記録からこの成立を1773年頃と
しているが。
道標に従って右手に回って竹に掴まって急登すると目の前に岩隗、
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ここから上は岩山。凄い崖なので少し近寄ると沢山の仏像が彫られている
のが見えるが何しろ足場が悪くて容易には近付けない。それに一体が
極めて小さく彫りが浅い。大きなもので縦50㌢ほどだ。
見るのと足場を確保するのと苦労しながらその中での数点を撮影。
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上にも続いているが殆ど絶壁なので無理。
今度は左への踏み跡でそろりそろりと周りこみながら見物。やがて真南に
来たら踏み跡も分からない。仕方ないので上から行けとばかりに崖を
登って松ノ木の在る頂上。ここがさっき見た岩隗の真上だが上からの
見物を試みるも全く歯が立たず。仕方なく左に見える別ピークへ。
古作業道跡を突っ切ってピークに立つが杭一本だけの空振り。
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後は散歩に切り替えてさっきの古作業道を下ると大きい蛇行の後に
先ほどの絶壁前に出た(12.08)。周回路だったのか?
ついでの事に先程と反対の右回りを試みるも岩も少なく仏像もまばら。
広場に戻って左側を探索。
一連の石像物の中に「妙法華一千部供養搭」があり「安永2年(1773年)
の銘、教育委員会の説明はこの年号を元にしているらしい。
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近くの岩に苔の盛り上がりと間違うような仏像や岩のひび割れにしか
見えないものも在る。
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一先ず終了として駐車場所に戻る(12.27)。
今度は「中山峰城址」の探訪に向う。ここはかって試みたが失敗して
いたのでリベンジだ。中山城・中山古城は有名だがここは小さな砦跡、
しかも地元の山名は「城山」で峰城とは山崎一氏の命名によるとか。
村道を西に進んで「法信寺」前を通過して中山信号から36号線を北上。
約3㌔弱で右手に派手な「赤根峠ポケットパーク」の看板の反対側が
北山本線林道の入り口、二階山や破風山に行くのにはこの林道を使う。
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幸いにして雪は路傍のみで走行には全く問題はなく、1.7Kで
城址入り口の道標(12.53)。
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入り口からは東電の管理道路のプラ段を使って尾根の急登を進む。
途中で振り返ると子持山の雄大な稜線
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小野子三山の眺めが見事。
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やがてコブ直下でなにやら標柱、蛇行プラ段でこの急登を乗りきると、
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もうそこは城址の南端の筈だが何の表示もなし。彼方に赤白送電鉄塔が
在るので前進すると突然の積雪。だが吹き溜まりで10㌢しかないので
さしたる障害ではない。鉄塔下に着くも城址関連は何もなし、
前回はここで諦めた。
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側面に「東」、頂部に黄色の矢印のコンクリート柱があるのみ。
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良く周辺を調べると北への道跡発見、杉林に突入して暫らくで記念碑
を確認。教育委員会設置の石碑(13.23)。表示はこれだけ。
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「戦国の世に峰城あり この山の名は城山という」と刻まれている。
この位置が本丸相当なので更に北に向うとやがて台地が途切れる。
この北の端が砦正面で新治方面に向かって須川衆と中山衆の抗争に
備えた中山城の見張り場か、のろし台の役割だったらしい。
呆気なく終ったので東北に伸びるデコボコ稜線を辿って水上との境に
ある二等三角点・北城967.86mにタッチすることにした。
残雪と落ち葉が交じり合って滑る稜線を慎重に進み、一つ小ピークを
越えると遥かの彼方に南北の大稜線が見える。多分アレが境界尾根と
判断してなるべく南寄りの残雪の少ないところを選んで小尾根脇を
前進。
稜線に着いたら北に向きが変わって傾斜の少ない頂上台地。
やがて台地の北端に待望の三角点発見(13.48)。
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近くに「界」の標柱が抜かれたように横たわっていた。
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ここからの雪嶺の展望が実に奇麗。
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少し眺めを楽しんでから下山に掛かり、雪と急に吹いて来た冷たい北風を
さけて日溜りの窪地で休憩と遅い昼食。本日の爺イ(14.00-14.15)。
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登り返しの雪が滑るのでやや難渋はしたが、無事に本日の散策終了で
林道の駐車場所。前回、この周辺ではカモシカや暢気に歩く山鳥に
遭遇したが今回は駄目、こんなものしか。
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帰路は中山信号から145号線を西進して中之条の名久田小の辺で
少し登路入り口の探索をし様と思ったら通行車両が少なく飛ばし過ぎで
あっという間に平・横尾を過ぎてしまい何も出来ずに伊勢町下から
東吾妻に抜けていつもの日陰道を使って帰宅。往復走行110K。
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