クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

嬬恋・長野原一回り H-26-6-3

2014-06-04 11:11:59 | 倉渕・長野原・草津・嬬恋
此処一週間ぐらい、群馬の花情報で嬬恋シャクナゲ園満開が続いていたので
梅雨入り前に見物に行く事にして序に嬬恋ハイキングに行くとき、時間の都合で
何時も素通りしている所を回る予定で。
だが、出発前に念のために開花状況を再チェックしたら何と「メインは終了、見所は一部」と
変更になっていた。又、時期を誤ったと思ったがもう出かける事にしてあるので
「一部」に微かな期待を残して出発。
曇り空のため展望の悪い二度上げ峠を越えて北軽井沢を経て何時もの浅間サンライン。
途中で案内道標を見たが複雑なペンション地域を通過する自信はないので
遠回りになるが村上山と糠塚山が迫るこの四つ角から車坂峠に向かう。



四つ角から2.8Kで舗装が切れてダートになる道を更に3.1K進むと分岐の道標で
舗装の左の道に入る。表示はないがこれは「林道群馬坂線」と思う。



蛇行して約3Kでシャクナゲ園の駐車場、既に相当数の車があるので観光客は多いらしい。
ここは入園料はないが「環境美化協力費300円也」を支払うシステム。係員が盛んに状況説明、
メインは終わったが標高1600mの辺まで行けばいくらか残っているしレンゲツツジも
咲いていると。
案内書を貰ってハイキングの積もりで約120mの標高差のあるコースに出発。



花の様子はデジブックで。

デジブック 『嬬恋シャクナゲ園』



多くの人たちと行き交いながら一回りして来ると受け付け所では花が見られなかったと
苦情を言う人が何人か。聞いてみたら新聞にも満開と書いてあったらしいが
係員は「何分にもこちらは園内の管理だけなのでーー」と困惑気味。

帰路は往路とは逆に東に下る。心配していた順路は角毎に明瞭な案内板があって
何の不安もなし。途中で国指定特別天然記念物の「浅間山溶岩樹岩」看板を見て
一寸コースを外れて寄り道。これも何時も見逃しの一つ。



浅間山から流出した溶岩が立ち木を取り込んでその立ち木が焼けたり腐ったりして
井戸のような溶岩の穴が出来たという。溶岩流の西側に当たるこの地区に特に多く
468ヶも確認されているらしい。
中に入るとこんな林の風景が現れ



近寄ると良く整備・管理された樹岩が一面に広がっている。



その幾つかの写真。穴が深いのはそれだけ天明の大噴火の溶岩堆積が厚かったという事で
自然の猛威の凄さを実感できる。







暫く見てから同じ噴火繋がりで鬼押し出し園に向かう。道標に従って進むと往路の
林道入り口から推定で5k以上も東で浅間サンラインに合流。



鬼押し有料道路で370円を支払って園内の駐車場。ここも観光客が多い。



入園料は460円、再びハイキングの積もりでこの分岐から一番外側の高山植物観察コースに入る。



多くの植物の名札が付けられているが咲いているのはトウゴクミツバつつじと
イワカガミ程度。





右下に樹齢推定100年という「石割りの松」の看板



近寄ると確かに石の割れ目から松が生えているが、根元が窮屈そうでこれ以上には
成長しないかも。



その先にヒカリゴケ、足場が悪いし規模が小さいので頑張ってもこの程度の写真。







溶岩の奇岩を眺めながら周回。一回りして車の中で軽食。









MVI_2785.AVI


今度は「大戸の仙人窟」を見に行く。ここから大戸に抜けるには長野原の狩宿から「万騎峠」
を使う。今度は有料道路を避けて浅間牧場に下ってr-146を北上する。
西中を過ぎて応桑局の手前で右の細道へ。この道は「町道北軽狩宿線」。
今度は応桑小の先で「朝比奈三郎義秀の墓」の道標で右折。義秀とは和田義盛の息子、
和田合戦で奮戦したことは分かっているがその後は生死不明。伝説では木曽の残党と
共に西吾妻に逼塞したと伝わる。





墓所を過ぎて間もなくで峠道の入り口の分岐。右に行けば北軽井沢から二度上げ峠、



左に行くのが峠道で「林道与喜屋赤宿線」。



くねくねと6k程、山裾を回りながら進んで万騎峠で巨木が出迎える。



峠の説明板は物資の輸送路の役目だったという現実の話と現在ではその実態が物語から発した
伝説と言われる頼朝の浅間山麓の牧狩りにも触れている。



今まで気づかなかったが奥の樹幹にこんな標識。



ここから約5k下ってR-406に合流



、須賀尾宿を通過して大戸の信号でr-58を北上、1kで
右に道標。この洞窟は1675年頃造られたと言う観世音と18羅漢の石像で名高く
吾妻33番観音札所でもあるが元々は先住民族の住居跡が定説。
戦国時代には県道の反対側にあった武田配下の大戸氏の守る「手古丸城」があり
城主が1580年高天神で戦死してから北条に奪われた。後に真田氏がこの岩窟を戦略基点として
手古丸城を奪還した記録がある。



入り口に立つと周囲の草は綺麗に刈り取られ整備が良い感じ。



直ぐに苔むして少々痛んだ石段が現れ



それを越すともう一段。



こんな巨木のところで反転して急斜面をジグザグの道。



ここでも反転すると



左斜面に通ずる道が現れる。どうやら洞窟ではなく通り抜けのアーチ状。



中は相当広い。左下の穴は入ってきた入り口。



正面に胎内窟のプレート。



反対の出口には道が続いている。



行き止まりが奥の院で



三体の石碑。これが高天神で戦死した城主・大戸氏一族のものと伝わる。



奥の院から戻ると更に石段は続く。



大きな石窟の中に



像高80センチの聖観世音像、吾妻33所観音の第八札所になっている。1678年の作。



その左右に同じ年代作の18羅漢が並ぶ。











何となく荘厳な雰囲気に触れて下山開始。今度はr-28で原町に抜けて帰宅。


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