クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

久しぶりに安中・茶臼山 R- 6- 5-17

2024-05-20 16:40:59 | 安中・松井田
昨年以来、加齢による心肺機能の低下を自覚していたので
低山でも山行きは自粛し昨年の実績は9/79回に過ぎない。
そこで今の体調を確認するため高低差の少ない安中・茶臼山の
北コースで試すことに。

安中榛名駅の北側をR-122で通過し石尊山登山口先のこの道標で
左折。



僅かの距離で林道・森熊線に入って狭いガタガタ道を西進。この道は
高崎と安中の境界線を出入りしながら延び「長者久保」の先でR-33の
地蔵峠に達する。



やがて南からクロスしてくる関東ふれあいの道群馬NO.13「山菜のみち」
(西上秋間・恵宝沢から日陰本庄・落合道祖神までの7.4K一般コース)
と交差するが「戸谷山」への登山口でもある。



悪路を低速で進むと「森熊支線」の入口で通行禁止の表示が
あるが片側が解放されているのでそのまま走行。
  


暫らく進んでこの錆びついたゲートの手前広場に駐車。
ここは北コース第二登山口、第一はずっと先だがここの方が
歩行距離は短い。但し第一とか第二とかは爺イの勝手な仮称。



利用する林道跡は叢に覆われ枝降ろしの枝が堆積していて
歩き難いが真っすぐなダラダラ下り。



下りが終わると判別しにくいY字分岐を右選択。うっかり綺麗な直進道を行ってしまうと複雑な派生林道跡に惑わされ植林地の中を彷徨する事になる。



道は緩やかに右に湾曲しながら右前方に見えてくる尾根との
合流を目指す。尾根上には西から第一登山口を発した
林道本線が東進しているのでそれと合流するのだ。



僅かな登り傾斜で尾根上の本線にたどり着く。



この先はやや林道跡が不鮮明だが尾根道を歩くのだから
不安はない。



やがて歩き易い下り直線路。



突然、林道跡が消滅。長く続く深い笹薮と下に散在する
伐採材の残骸に悩まされる。



漸く城址の一角に到着。この突起を直登すると堀切上の断崖に
出て降りられないから迂回。




左から斜面をトラバース。



堀切の中には四本の表示木柱。




堀切から這い上がって次の突起を乗り越え。



更に目印になる石柱のある小突起を越えると大きな腰郭。



この倒木の方角に直登すると



一本の杭と笹に覆われた頂上台地。



腐った支柱に付けられた標識が一枚だけ巨木の幹に
立てかけられているだけ。



かっては人気があって多くの標識で賑わっていたのに
寂しい限り。



初めて見る「城跡」の標識。ここがかっての城跡だと
いうことを伝えるのに有効。



城址の由来についてはこの山頂に説明看板がかって存在したが
今は見当たらないから土に帰ったのだろう。



周辺には宮標識が健在。



鳥の声も聞こえない静かな頂上でのんびり昼食と休憩。
振り返って考えたら如何に高低差の少ないコースとは
いえ、一時間以上も歩いてきたのに殆ど息切れもなく
数年前と変わらない。矢張り肺気腫は進行していな
いらしい。帰路はルート間違いのないように慎重に
歩行して一時間弱で帰着。

本日の爺イ。



本編は17日のものだが画像の損傷で
復旧に時間がかかったため4日遅れの投稿。

21勝19敗 4分 (05/21)現在3位 首位と1.5ゲーム差、2位と1.0ゲーム差、4位と2.0ゲーム差

蛇足
碓氷郡誌には
「この城の創建は建久四年、頼朝が浅間三原野に狩を催した時、砦を此処に築いて
飽間太郎勝正を封じたのが始まり。爾後、累世の居城としたが後胤の飽間三郎勝成が
観応二年、新田義宗に従って笛吹(うすい)峠で足利軍と戦って討ち死。
其の末裔飽間三郎勝俊の代となった時、内出城に転住したために、
その後空き城となった処より、漸次廃絶するに至った」とあるが城塞研究の
第一人者である山崎一氏はその著書・群馬県古城塁史の研究下巻」のP-183で
「築城形式からして鎌倉初期のものではなく南北朝時代のものと判断している。
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