(5)白井宿周辺
(イ)鯉沢の道祖神
17号線を鯉沢まで戻り信号を左折(東)したカーブの所に白井宿の
道標。その下に双神道祖神、元禄期のもので県内最古に属すると
されるが余りにも奇麗なのでこれは別物 ?
(ロ)吹屋の薬師堂
蛇行する細道を東進すると左側に薬師堂、
入り口にある子持山の自然割石に深彫りされた庚申搭が実に見事。
境内の右手に新しい「華月庵の鞘堂」、その隣に並ぶ石像群の中で
一際大きいのが県内最古と言われる三重の庚申搭。
薬師堂の左手には「青面金剛」の半肉彫りが五体と石塔が並ぶ。
青面金剛とはインド仏教の流ではなく中国の道教思想によるもので
日本では庚申講の本尊として独自に広まったもので良く蛇が体に
巻きついているのをみるが。
(ハ)玄棟院の閻魔大王
薬師堂から100㍍で1232年創建の玄棟院春日寺。
寺の入り口に早くも閻魔像、
そして右側の岩造りの築山に数体の石像
その下部に奪衣婆
境内の中頃に長尾氏の祖が鎌倉から下向の際に持ってきたと言われる
閻魔様の本命。
(ニ)松原の道しるべ
白井宿に向かうと小さな四つ角、そこに道しるべ。
自然石を台にして高さ90.5㌢30㌢角、頂部は四角錐。
「右まいば志 おほご 道」「左えちご あがつま 道」 「まいば志」は方言。
「「右まいば志 おほご 道」 「左ぬまた 双林寺 道」 彫り深く秀逸。
(ホ)白井宿
更に直進道を下るといよいよ白井宿、小幡の造りを小型にしたような
堀を中心に整備完璧。
云わずと知れた長尾氏の白井城の城下町だが白井城そのものは現在
土塁と掘割を残すだけ、1590年の秀吉の小田原攻めの時、前田等の
北陸勢に蹂躙されて長尾氏は没落、家康の関東入りに際して本多康重が
引き継いで整備したが1624年に廃城。その後に住民達が城下町を生かして
矩形の町割を造り、草津・三国街道に接続し吾妻・利根の渡河点であった事も
幸いして沼田街道西通りとして旅人が往来して「宿」とも言われるようになったとか。
中心に170㌢、38㌢角の大きな道しるべ。
ぬまた道
えちご くさつ
日光 江戸
少し離れて「北向地蔵」の石堂、信州石工・安之尉の1746年の作。
この街道には8ヶ所につるべ井戸が夫々名前がついて残されているが
其の内の一つ「大井戸」
街道を北に向かうと「北木戸」と云われる北の玄関口に達する。
この左手に「陸神」と彫られた大きな文字搭。
文政11年(1828年)の造立で片品村の書家・藤賢和の豪筆。
以上で子持探訪は一先ず終り。
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(イ)鯉沢の道祖神
17号線を鯉沢まで戻り信号を左折(東)したカーブの所に白井宿の
道標。その下に双神道祖神、元禄期のもので県内最古に属すると
されるが余りにも奇麗なのでこれは別物 ?
(ロ)吹屋の薬師堂
蛇行する細道を東進すると左側に薬師堂、
入り口にある子持山の自然割石に深彫りされた庚申搭が実に見事。
境内の右手に新しい「華月庵の鞘堂」、その隣に並ぶ石像群の中で
一際大きいのが県内最古と言われる三重の庚申搭。
薬師堂の左手には「青面金剛」の半肉彫りが五体と石塔が並ぶ。
青面金剛とはインド仏教の流ではなく中国の道教思想によるもので
日本では庚申講の本尊として独自に広まったもので良く蛇が体に
巻きついているのをみるが。
(ハ)玄棟院の閻魔大王
薬師堂から100㍍で1232年創建の玄棟院春日寺。
寺の入り口に早くも閻魔像、
そして右側の岩造りの築山に数体の石像
その下部に奪衣婆
境内の中頃に長尾氏の祖が鎌倉から下向の際に持ってきたと言われる
閻魔様の本命。
(ニ)松原の道しるべ
白井宿に向かうと小さな四つ角、そこに道しるべ。
自然石を台にして高さ90.5㌢30㌢角、頂部は四角錐。
「右まいば志 おほご 道」「左えちご あがつま 道」 「まいば志」は方言。
「「右まいば志 おほご 道」 「左ぬまた 双林寺 道」 彫り深く秀逸。
(ホ)白井宿
更に直進道を下るといよいよ白井宿、小幡の造りを小型にしたような
堀を中心に整備完璧。
云わずと知れた長尾氏の白井城の城下町だが白井城そのものは現在
土塁と掘割を残すだけ、1590年の秀吉の小田原攻めの時、前田等の
北陸勢に蹂躙されて長尾氏は没落、家康の関東入りに際して本多康重が
引き継いで整備したが1624年に廃城。その後に住民達が城下町を生かして
矩形の町割を造り、草津・三国街道に接続し吾妻・利根の渡河点であった事も
幸いして沼田街道西通りとして旅人が往来して「宿」とも言われるようになったとか。
中心に170㌢、38㌢角の大きな道しるべ。
ぬまた道
えちご くさつ
日光 江戸
少し離れて「北向地蔵」の石堂、信州石工・安之尉の1746年の作。
この街道には8ヶ所につるべ井戸が夫々名前がついて残されているが
其の内の一つ「大井戸」
街道を北に向かうと「北木戸」と云われる北の玄関口に達する。
この左手に「陸神」と彫られた大きな文字搭。
文政11年(1828年)の造立で片品村の書家・藤賢和の豪筆。
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