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旧群馬町足門へ所用で出掛けた序にR-25を北上して渋川の有馬地区と行幸田地区
の史跡探訪。
(1)有馬の左剣不動
切っ掛けは渋川史跡の紹介の中に「左剣不動」というのを見つけたから。
わざわざ、「左」と云うからには普通の不動様の像は右手に剣を持っているのか?
記憶が定かではないので、早速、数多い爺イのブログの中から「史跡探訪」を
再チェックして不動さまの画像を探す。
数枚は出てきたが古いものばかりでハッキリしない。何とか手の辺りが判別できる
ものはR-126の鐘撞・音羽登山口になっている前ノ沢林道手前のもの
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箕郷の長野氏ゆかりの長純寺のもの。確かに剣は右手に握られている。
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もっとハッキリさせるのはこの画像。一面二臂で右手に剣と左手に羂索
(けんじゃく、縄)を持っている。この剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き
付いている場合もあるので、別名を「倶利伽羅剣」。
魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る降魔の三鈷剣とも云われ、
左手の羂索は悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い
上げるための投げ縄のようなものなんだそうだ。
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吉岡町最後の信号「小倉」を僅かに過ぎ、渋川との境界になっている昔の
「箕輪道」へ左折。暫くで切り返しの様な右折道を北上すると大きな鳥居。
掲額には確かに「左剣不動」の文字。
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参道脇にも石柱。
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参道を進んで左に回りこむと正面に鳥居とお堂。
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一寸失礼してお堂の中を撮影。1696年の不動明王との事だが何しろ
隙間が極く僅かなので良く見えない。
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お堂の裏に小さな不動明王の石像が多数あつた。石像の数62体、
それに文字碑が四個。
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全てが「左剣不動」だ。
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周囲を見渡しても何故「左剣」なのかの由来の説明看板は無いが、
この地に伝わる伝説が幾つかある。その中で最も史実に近いと評価されているのが
「新田義貞の次男・原沢将監伝説」とのことだが、生憎なことに新田義貞の男子は
義顕・義興・義宗で将監の名は系図には無く野田村の女との間に生まれた妾腹の子、
又は次男・義興の遺児と言うところか。義貞没後に土着、各地を転々としたが
越後から故郷の野田村を目指した時に足利勢の探索に引っかかり右手を切られても
左手のみで奮戦の後討ち死。ここが終焉の地と言われており、村人が哀れと思い、
野田村がよく見える丘の上に墓を立て懇に弔とむらった。
不動尊は将監の守り本尊だったので、この不動尊は将監の最後の姿を現している
と伝わるそうだ。
その子孫に原沢文仲(1764~1839)が居る。原沢将監を祖とし、北群馬郡吉岡町
上野田の医家に生まれ、「野田の金瘡」で知られた外科医である。嶺東散などの
金瘡薬で有名。
文仲の名は代々襲名した。初代義誼は圭亭と号し、紀州の華岡青洲に外科を学び、
外科医として「野田の原沢」の威名を関東一円に轟かせたと記録されている。
(2) 有馬の五輪塔
車道に戻って団地入り口方面へ北上。牛王川の少し手前の宮下氏宅の裏庭に
鎌倉時代のものと伝わる五輪塔。
安山岩の立派なもので総高150cm、地輪幅60cmの南北朝期のものである。
火輪に一部損傷があるが全体として整っており、この傷について五輪様の化身と
老婆にまつわる伝説があると聞くが良くは知らないので後日調べてみよう。
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(3)中有馬の庚申塔
宮下宅から東の畑地を見渡すと大きな庚申塔。この中有馬附近は、渋川における
三国街道の面影を最も良く残していると云われる。上・中有馬の田畑を横断する
街道沿いに、有馬の人々によって寛政12年(1800)12月に建てられた。
総高292cm、幅70cmの大きなものである。
赤城を背景にすると裏面。
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逆に表を見ると画面右隅に水沢山が薄く入る。
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(4)上有馬の地蔵尊
更に北上すると左手に地蔵菩薩像。
上有馬の牛王川にかかる向橋北の三国街道沿いにあり、念仏供養のため有馬村の
人々によって建立されたお地蔵様。像高103cm、幅40cm,総高198cmと大型。
延享4年(1747)7月の作と伝わる。
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(5)行幸田・谷地の湧水
団地入り口信号を左折し大きく左旋回する手前の小道を右折。直ぐに湧水。
北側の山沿いの部分的に切り立った山肌からしたたり落ちる水を堰を作って
利用している。
地域の人たちが蛍を飛ばしているらしくその案内看板。
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水涸れの池。
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堰の山側の岩肌から湧水が滴り落ちて池のよう。集落の所々に水が引かれていて
利用されているらしい。
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(6)行幸田・谷地の庚申様
その北側の湧水近くには屋根のある地元の人が「おさいさま」と呼ぶ石仏。
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左は一面六臂の青面金剛らしい。
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右側のは文字だけの庚申様。周辺は昔のよすがを残す一画である。
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(7)谷地の虚空蔵菩薩
庚申様から狭い道を北に進み大きなケヤキの脇で急で長い石段を登る。
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階段の半ばで崖の上に不動明王。
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50段以上の石段を登りきると、谷地の奥泉一族が祀る虚空蔵のお堂がある。
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お堂の左手前に如何にも古そうな五輪塔が二基。
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右側には馬頭観音。
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お堂の中。
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谷地の奥泉一族は虚空蔵菩薩がうなぎに乗って天から舞い降りてきたという
言い伝えから、うなぎは食べたり、捕らえたりしない習わしがあると聞く。
近くに見事な枝垂梅。
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本日の史跡探訪はここまで。
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の史跡探訪。
(1)有馬の左剣不動
切っ掛けは渋川史跡の紹介の中に「左剣不動」というのを見つけたから。
わざわざ、「左」と云うからには普通の不動様の像は右手に剣を持っているのか?
記憶が定かではないので、早速、数多い爺イのブログの中から「史跡探訪」を
再チェックして不動さまの画像を探す。
数枚は出てきたが古いものばかりでハッキリしない。何とか手の辺りが判別できる
ものはR-126の鐘撞・音羽登山口になっている前ノ沢林道手前のもの
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箕郷の長野氏ゆかりの長純寺のもの。確かに剣は右手に握られている。
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もっとハッキリさせるのはこの画像。一面二臂で右手に剣と左手に羂索
(けんじゃく、縄)を持っている。この剣は竜(倶利伽羅竜)が巻き
付いている場合もあるので、別名を「倶利伽羅剣」。
魔を退散させると同時に人々の煩悩を断ち切る降魔の三鈷剣とも云われ、
左手の羂索は悪を縛り上げ、また煩悩から抜け出せない人々を救い
上げるための投げ縄のようなものなんだそうだ。
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吉岡町最後の信号「小倉」を僅かに過ぎ、渋川との境界になっている昔の
「箕輪道」へ左折。暫くで切り返しの様な右折道を北上すると大きな鳥居。
掲額には確かに「左剣不動」の文字。
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参道脇にも石柱。
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参道を進んで左に回りこむと正面に鳥居とお堂。
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一寸失礼してお堂の中を撮影。1696年の不動明王との事だが何しろ
隙間が極く僅かなので良く見えない。
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お堂の裏に小さな不動明王の石像が多数あつた。石像の数62体、
それに文字碑が四個。
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全てが「左剣不動」だ。
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周囲を見渡しても何故「左剣」なのかの由来の説明看板は無いが、
この地に伝わる伝説が幾つかある。その中で最も史実に近いと評価されているのが
「新田義貞の次男・原沢将監伝説」とのことだが、生憎なことに新田義貞の男子は
義顕・義興・義宗で将監の名は系図には無く野田村の女との間に生まれた妾腹の子、
又は次男・義興の遺児と言うところか。義貞没後に土着、各地を転々としたが
越後から故郷の野田村を目指した時に足利勢の探索に引っかかり右手を切られても
左手のみで奮戦の後討ち死。ここが終焉の地と言われており、村人が哀れと思い、
野田村がよく見える丘の上に墓を立て懇に弔とむらった。
不動尊は将監の守り本尊だったので、この不動尊は将監の最後の姿を現している
と伝わるそうだ。
その子孫に原沢文仲(1764~1839)が居る。原沢将監を祖とし、北群馬郡吉岡町
上野田の医家に生まれ、「野田の金瘡」で知られた外科医である。嶺東散などの
金瘡薬で有名。
文仲の名は代々襲名した。初代義誼は圭亭と号し、紀州の華岡青洲に外科を学び、
外科医として「野田の原沢」の威名を関東一円に轟かせたと記録されている。
(2) 有馬の五輪塔
車道に戻って団地入り口方面へ北上。牛王川の少し手前の宮下氏宅の裏庭に
鎌倉時代のものと伝わる五輪塔。
安山岩の立派なもので総高150cm、地輪幅60cmの南北朝期のものである。
火輪に一部損傷があるが全体として整っており、この傷について五輪様の化身と
老婆にまつわる伝説があると聞くが良くは知らないので後日調べてみよう。
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(3)中有馬の庚申塔
宮下宅から東の畑地を見渡すと大きな庚申塔。この中有馬附近は、渋川における
三国街道の面影を最も良く残していると云われる。上・中有馬の田畑を横断する
街道沿いに、有馬の人々によって寛政12年(1800)12月に建てられた。
総高292cm、幅70cmの大きなものである。
赤城を背景にすると裏面。
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逆に表を見ると画面右隅に水沢山が薄く入る。
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(4)上有馬の地蔵尊
更に北上すると左手に地蔵菩薩像。
上有馬の牛王川にかかる向橋北の三国街道沿いにあり、念仏供養のため有馬村の
人々によって建立されたお地蔵様。像高103cm、幅40cm,総高198cmと大型。
延享4年(1747)7月の作と伝わる。
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(5)行幸田・谷地の湧水
団地入り口信号を左折し大きく左旋回する手前の小道を右折。直ぐに湧水。
北側の山沿いの部分的に切り立った山肌からしたたり落ちる水を堰を作って
利用している。
地域の人たちが蛍を飛ばしているらしくその案内看板。
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水涸れの池。
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堰の山側の岩肌から湧水が滴り落ちて池のよう。集落の所々に水が引かれていて
利用されているらしい。
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(6)行幸田・谷地の庚申様
その北側の湧水近くには屋根のある地元の人が「おさいさま」と呼ぶ石仏。
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左は一面六臂の青面金剛らしい。
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右側のは文字だけの庚申様。周辺は昔のよすがを残す一画である。
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(7)谷地の虚空蔵菩薩
庚申様から狭い道を北に進み大きなケヤキの脇で急で長い石段を登る。
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階段の半ばで崖の上に不動明王。
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50段以上の石段を登りきると、谷地の奥泉一族が祀る虚空蔵のお堂がある。
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お堂の左手前に如何にも古そうな五輪塔が二基。
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右側には馬頭観音。
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お堂の中。
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谷地の奥泉一族は虚空蔵菩薩がうなぎに乗って天から舞い降りてきたという
言い伝えから、うなぎは食べたり、捕らえたりしない習わしがあると聞く。
近くに見事な枝垂梅。
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本日の史跡探訪はここまで。
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拙稿がお目に留まって光栄です。今後ともよろしく。
ところでこ小鳥遊さんは「たかなし」さん?