高崎・新町の「雛祭り」も終盤に来たので家族連れで一寸覗きに
行って見た。この祭りは何か由緒があるとか、古くからの慣わしという類ではない。
今年で五回目、家庭で飾らなくなったひな人形を集め町内の施設や店舗に飾る類で
三月三日まで。町興し?
町内約60カ所に約100基のひな飾りが飾り付けられ、江戸時代
末期から昭和、現代のそれぞれの時代の趣向や流行がうかがえるー
との触れ込み。
高崎との合併時、人口12000人のこの小さな町は古代の701年 、大宝律令に
よつて上野国緑野郡となる。下って1582年6月 、滝川一益と小田原城後北条氏が
戦った神流川合戦の後、加賀藩前田氏により、当地を通る街道「加賀街道」が開かれ
宿場の町並みが形成され落合新町、笛木新町と呼ばれるようになる。宿場としては
両町あわせて新町宿と呼ばれたが1654年に 加賀街道は中山道。
1724年には新町宿が中山道の正式な宿場となった。そこから又複雑な変遷。
1868年6月 - 岩鼻県に所属、1871年 群馬県に所属。
1873年 熊谷県に所属、1889年に町村制施行に伴い、緑野郡新町が成立。
1896年 緑野郡が多胡郡・南甘楽郡と統合して多野郡となり、同郡の所属となる。
で、2006年1月 群馬郡群馬町・箕郷町・倉渕村とともに高崎市に編入された。
閑話休題。
R-17の上り車線で新町駅前を左折、四つ角近くの「明治天皇
新町行在所」、ここがメイン会場。
広場にはテントが張られて甘酒無料サービス。定番の焼き饅頭や二・三の野菜・
雑貨売り場もある。
その奥の行在所に雛壇がずらり。年代と出品者の名前付き。
明治天皇は、1878年8月から11月にかけて、北陸・東海地域の
御巡幸を行ったがその途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所。
当時は、木造瓦葺き平屋建の本屋と付属家の2棟、周囲は高さ9尺の総板塀で
囲われていたとか。19801月に新町の史跡文化財としての指定。
一通り見てから今度は商店街の個別の展示を見て回る。
店の奥にあったりするので車道からは見えない事が多いが
協賛店目印の小旗を出してある店を訪問。最初は遠慮して何か
購入してから見せて貰ったが、そんな気遣いは無用と言われた
後は挨拶のみ。それらを幾つか。
が、足弱家族は小一時間も廻ると音を上げる。それで爺イが数回も
訪れたことがある近くの於菊稲荷へ車で移動。新町第一小の西隣。
参道側の駐車場が入り口。
鍵の手に曲がる参道の始まりにはどうゆう訳なのか? 一つだけ
石の鳥居。
直ぐ左手に比較的新しい双神道祖神。200年後には確実に文化財?
こじんまりと「雷電神社」。元々雷被害・洪水被害の多い地域に
あるそうで祭神は火電大神(ホノイカヅチノオオカミ)・大雷大神
(オオイカヅチノオオカミ)。有名なのは関東総本社格の板倉町のもの。
参道は約20本の赤鳥居区間で一区切り。
幟の建つ拝殿前にも20本。
拝殿前にはやや彫が深い狛犬や
子連れに見える狛狐。
もとは普通の「稲荷神社」、1582年の神流川合戦の際、白いキツネが現れ
北条氏が勝利を収めたので感謝して、この地に社を構えたとの伝承。
この稲荷が「於菊稲荷」と名付けられたのは江戸時代、宝暦年間、
宿場町となった新町に「於菊」という娘がおり、医者からも
見放されるような重病にかかり、悩み苦しんだ末、この
「稲荷神社」に救いを求め深く深く信心を続けたところ、
不思議に病はすっかり治った。その後、於菊は稲荷神社の
巫女となり、作物の出来具合や人の吉凶、なくし物のありかまで
さまざまな事を言い当てましたとか。ここから「困ったことが
あったら於菊に聞け、稲荷の於菊に聞け」と言われる
ようになり、誰いうともなく「於菊稲荷」と呼ぶように
なつたと伝わるらしい。
ここには数々の売り物がある。
先ず、社殿の外に案内のある文化財指定の絵馬二枚。社殿の
中なので直接は撮せず、その案内板。
「遊女参詣図」 1873年 狩野美信 遊女六人と妓楼の者四人が
描かれ当時の風俗を知る格好の資料との評価。
これは「武者絵」 1820年 石川梅英 中央の若武者が右手で一人の鎧武者を
高々と差し上げ、足元にもう一人の武者を踏み敷く勇ましい構図。
もう一つの文化財はこの石の「手水鉢」。1826年。
水盤正面の「冰香」の字は寛政四大詩人の一人・大窪詩仏(1767-1837)
寛政四大詩人と云ってもピンと来なかったが、調べたら後の三人は
市川寛斎 1749-1820 (南牧村) 柏木如亭 1763-1819 (江戸)
菊池五山 1769-1855 (高松) 因みに大窪は常陸出身。
台石にも精巧な狛犬の彫りがある。
ぐるっと一回りで本日の散策は終了。
帰宅したら今まで完全にヒヨドリの勢力下にあつた小鳥寄せの餌場に
今年初めてメジロがきていた。
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行って見た。この祭りは何か由緒があるとか、古くからの慣わしという類ではない。
今年で五回目、家庭で飾らなくなったひな人形を集め町内の施設や店舗に飾る類で
三月三日まで。町興し?
町内約60カ所に約100基のひな飾りが飾り付けられ、江戸時代
末期から昭和、現代のそれぞれの時代の趣向や流行がうかがえるー
との触れ込み。
高崎との合併時、人口12000人のこの小さな町は古代の701年 、大宝律令に
よつて上野国緑野郡となる。下って1582年6月 、滝川一益と小田原城後北条氏が
戦った神流川合戦の後、加賀藩前田氏により、当地を通る街道「加賀街道」が開かれ
宿場の町並みが形成され落合新町、笛木新町と呼ばれるようになる。宿場としては
両町あわせて新町宿と呼ばれたが1654年に 加賀街道は中山道。
1724年には新町宿が中山道の正式な宿場となった。そこから又複雑な変遷。
1868年6月 - 岩鼻県に所属、1871年 群馬県に所属。
1873年 熊谷県に所属、1889年に町村制施行に伴い、緑野郡新町が成立。
1896年 緑野郡が多胡郡・南甘楽郡と統合して多野郡となり、同郡の所属となる。
で、2006年1月 群馬郡群馬町・箕郷町・倉渕村とともに高崎市に編入された。
閑話休題。
R-17の上り車線で新町駅前を左折、四つ角近くの「明治天皇
新町行在所」、ここがメイン会場。
広場にはテントが張られて甘酒無料サービス。定番の焼き饅頭や二・三の野菜・
雑貨売り場もある。
その奥の行在所に雛壇がずらり。年代と出品者の名前付き。
明治天皇は、1878年8月から11月にかけて、北陸・東海地域の
御巡幸を行ったがその途中の9月2日に新町に宿泊された施設がこの行在所。
当時は、木造瓦葺き平屋建の本屋と付属家の2棟、周囲は高さ9尺の総板塀で
囲われていたとか。19801月に新町の史跡文化財としての指定。
一通り見てから今度は商店街の個別の展示を見て回る。
店の奥にあったりするので車道からは見えない事が多いが
協賛店目印の小旗を出してある店を訪問。最初は遠慮して何か
購入してから見せて貰ったが、そんな気遣いは無用と言われた
後は挨拶のみ。それらを幾つか。
が、足弱家族は小一時間も廻ると音を上げる。それで爺イが数回も
訪れたことがある近くの於菊稲荷へ車で移動。新町第一小の西隣。
参道側の駐車場が入り口。
鍵の手に曲がる参道の始まりにはどうゆう訳なのか? 一つだけ
石の鳥居。
直ぐ左手に比較的新しい双神道祖神。200年後には確実に文化財?
こじんまりと「雷電神社」。元々雷被害・洪水被害の多い地域に
あるそうで祭神は火電大神(ホノイカヅチノオオカミ)・大雷大神
(オオイカヅチノオオカミ)。有名なのは関東総本社格の板倉町のもの。
参道は約20本の赤鳥居区間で一区切り。
幟の建つ拝殿前にも20本。
拝殿前にはやや彫が深い狛犬や
子連れに見える狛狐。
もとは普通の「稲荷神社」、1582年の神流川合戦の際、白いキツネが現れ
北条氏が勝利を収めたので感謝して、この地に社を構えたとの伝承。
この稲荷が「於菊稲荷」と名付けられたのは江戸時代、宝暦年間、
宿場町となった新町に「於菊」という娘がおり、医者からも
見放されるような重病にかかり、悩み苦しんだ末、この
「稲荷神社」に救いを求め深く深く信心を続けたところ、
不思議に病はすっかり治った。その後、於菊は稲荷神社の
巫女となり、作物の出来具合や人の吉凶、なくし物のありかまで
さまざまな事を言い当てましたとか。ここから「困ったことが
あったら於菊に聞け、稲荷の於菊に聞け」と言われる
ようになり、誰いうともなく「於菊稲荷」と呼ぶように
なつたと伝わるらしい。
ここには数々の売り物がある。
先ず、社殿の外に案内のある文化財指定の絵馬二枚。社殿の
中なので直接は撮せず、その案内板。
「遊女参詣図」 1873年 狩野美信 遊女六人と妓楼の者四人が
描かれ当時の風俗を知る格好の資料との評価。
これは「武者絵」 1820年 石川梅英 中央の若武者が右手で一人の鎧武者を
高々と差し上げ、足元にもう一人の武者を踏み敷く勇ましい構図。
もう一つの文化財はこの石の「手水鉢」。1826年。
水盤正面の「冰香」の字は寛政四大詩人の一人・大窪詩仏(1767-1837)
寛政四大詩人と云ってもピンと来なかったが、調べたら後の三人は
市川寛斎 1749-1820 (南牧村) 柏木如亭 1763-1819 (江戸)
菊池五山 1769-1855 (高松) 因みに大窪は常陸出身。
台石にも精巧な狛犬の彫りがある。
ぐるっと一回りで本日の散策は終了。
帰宅したら今まで完全にヒヨドリの勢力下にあつた小鳥寄せの餌場に
今年初めてメジロがきていた。
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