クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

小柏氏三題噺 平成十九年三月二十日

2007-03-20 11:12:43 | 伝説・史跡探訪
先日、藤岡側から峠道を探索した帰りに県道を歩いていたら
「小柏」の道標、これで思い出したので小柏氏三題。

(1)お菊事件と小柏と。
かって小幡氏に纏わる「お菊伝説」の跡を追い掛け回していた時に
「小柏源六」の名に接している。この御仁、伝説に登場とは
言うものの、れっきとした歴史上の実在人物でこの上日野小柏の産。
例の「菊女蛇責」の事を記した「小幡伝説」の要旨を引用する。

「上総介信貞殿、菊という女を召し使ひ給ひけるが、或る時、この女
信貞殿への御膳を据ゑけるに何とかしたるけん、御食椀の内へ針を
取り落としけるを知らずして御膳を据ゑければ菊が運命の尽くる時か。
信貞殿(おのれ我に針を呑ませ殺害せんとしたる曲者なり。言語道断
の奴、身を寸々に切り裂きても飽きたらぬ)と下部共に申付けられ
蛇を数多く取り集め大なる桶に菊を裸にして押しこめ、蓋の穴から
蛇を入れ塞ぐ。
蛇共中にて上になり下になり哎合ひ潜合ひ夫より菊が身の内に喰い入る。
其の桶を宝積寺山の奥なる池に沈めける。懸かる所へ小柏源六という
侍、猪狩りに立出て其処を通りけるが、女の泣き叫ぶ声聞えければ池の邊に
立ち寄りて見てあれば桶一つ浮かび女の首計り出してあり。源六不便に
思い弓の弭にて掻き寄せ桶の蓋を打ち破れば蛇共夥しく出でにけり。
女喜びて誰様にておわしますと問いければ小柏源六なりと答う。
女申すよう、このご恩には今より後、御家の中へ蛇参りても怨を致させ
申すまじ、御心安かれと云う声と共に死にけり。さるによって小柏の家にて
は仮令毒蛇を踏みてもさす事無し。其の子孫今に至りて繁盛す」
下は宝積寺から熊倉山に向かう途中にある「菊ヶ池」案内板と「お菊の祠」


一寸、気になるのは上日野と小幡を結ぶ峠に「二本木(ニホウギ)峠」の
古名があるが或る古書によると、この「ニホウギ」とは「ニ方忌」からの
転嫁と書いてある。其の二つの「忌」とは或る状態の女性と「小柏様」が
峠を越えて小幡に入ることを忌み嫌ったからと伝えられている。
この事件と関係があるのか?或いは源六(定重)の時代が小柏家の全盛時代で
武田旗下としての小幡氏に属していながら「小柏様のお通りならば蛇や
百足も道あける」との伝説を残すほどの権勢だったための警戒心か。

(2)源六さんは貴族の末裔だった
藤岡市史の人物編から引用。
「小柏家は平重盛の嫡子・維(コレ)盛の一子・維基を始祖としてこの地の
郷士となり鎌倉北条に属し、後に平井上杉に従い、又甲州武田に帰した。
維基から十八世定重に至った。定重は定政の嫡子で源六と称した。父子
共に武田の武将で諸所の合戦に武功を顕したが天正三年遂に長篠役で
戦死した。」
しかし、大まかな平家の系図には維盛で切れていて維基の名が見当らない。

そこで一気に平家物語の世界へ飛んでいく。但し、原本が読めるわけも
無いので2800Pを超える森村誠一の「平家物語」で探ってみた。
維基の事となると其の父親の維盛について語らなくてはならない。
この維盛さん、清盛の孫にして重盛の嫡男、武将と言うより生まれながら
の完全な貴族の風格。
源平時代の清盛を頂点とする「伊勢平氏」は云わずも知れた桓武天皇の曾孫
「高望王」をその始祖とするが、源氏と同様に皇族の口減らし策。
頼朝の蜂起を懸念した清盛は高倉上皇より源氏追討の院宣を出させ、
軍を編成する。
当時の貴族化した平氏は戦う気などさらさら無い。そこで貧乏籤を引か
されたのが清盛孫の維盛で副将は清盛五弟の忠教。この忠教さん、
800年を経た現代まで「サツマノカミタダノリ」としてキセルと云われる
無賃乗車の代名詞として名を残す。
平氏一門の主流であった筈の維盛は父親・重盛の急逝によって其の位置を
重盛三弟宗盛に奪われ傍流に成り下がっていたのだ。清盛は戦闘隊の長を
傍流の末から指名したのである。
結果は歴史の示すとおり、富士川で水鳥の羽音に驚いた平氏は戦わずして
壊走する。
大将・副将が真っ先に逃げたわけでもなく、必死の食い止めに奔走したの
だが結果責任。さらに不運は続く。倶利伽羅峠で義仲に一蹴された時も
五万の軍勢の総大将は維盛。

この後、維盛が登場するのは義仲が京に迫った平氏都落ちの場面。一門は
軍勢に伴われる家族と置き去りにされる家族に分かれる。維盛の家族は
置き去り組。
妻は大納言の娘、行方定まらぬ都落ちには連れて行かれなかったのだろう。
きぬぎぬの別れの描写が続くが、その時、10歳の男子と8歳の女子が
いたとされる。この男子が小柏の祖となる維基かと思ったが、小柏系譜
では始祖・維基は維盛の妾腹の子とあるのでアレレだ。
もっとも、この場面で資盛以外は系図には出てこない維盛の弟達が
清経・有盛・忠房・兼盛・師盛などとぞろぞろ出て来るのでそんな時代
だったのだろう。
遂に最後まで小柏の祖となったと言う妾腹の維基の名は物語には出てこない。
屋島での源平対峙中、維盛は悲劇的運命を迎える。妻子恋しの一念で戦線を
離脱し数人の供回りを連れただけで小船で屋島を脱出、紀伊の国・黒井の
湊に漂着。現在の海南市。ここから山を越えて都に帰ろうとしたが途中で
叔父・重衡が捕虜として鎌倉に護送されたと聞いて、自分も捕まって一門
の恥の上塗りをするのを避けて高野山で仏門に入る。が、後に那智の浦に
漕ぎ出して入水自殺した。二十七歳。
一族を滅亡に導いた責任感に押しつぶされたのであろうが哀れな末路。
下の写真は奈良県吉野郡野迫川村にある「維盛塚」と十津川にある墓所。


因みに後年、藤原氏であった筈の織田信長は平維盛弟の資盛嫡男の親真が
始祖であるとの系図を流布させているが、その親真は確かに平氏系図に
載っている。
但し、伝説が多くて津田氏の祖とか忌部氏祖とかの話があるが、福井県
織田町の法楽寺跡から発掘された親真と刻まれた石塔の解明によって
ハッキリするかも。

(3)上日野・小柏氏
清盛の孫、悲劇的最後を遂げた維盛の妾腹の子が平家の滅亡の後、鮎川
上流の山奥に落ち延びたとされる。どうも、歴史上か伝説か分からない
ような時は何時も妾腹の子と来るのが落ちだから眉唾だがそうではない
と言う証拠も無いからまあ良いだろう。
平安期の西上州では高山・金井・平井周辺は高山氏の勢力範囲だが
日野谷奥地は支配の埒外だったらしい。ここに根付いた落ち武者一統は
土地の名・小柏を名乗るも鎌倉幕府を憚ってひっそりと暮らした筈。
だが、北条時政に始まる平氏系の北条執権が台頭すると此れに従い、
上洛の供を務めるようになる。しかし、後に新田義貞の鎌倉攻めには
北条方として戦って主軸は討ち死に、再び貝の蓋を閉めて逼塞。其の後、
関東管領に上杉憲顕が就任すると知己を得て上杉に仕え長期間、安泰の
時期を送り隆盛する。
戦国時代に突入すると激しく変転する。上杉に従って川越で後北条と
戦って敗北すると上杉を見限り他の西上州勢と共に後北条に寝返ったが、
武田の上州進出に押されて武田輩下の国峰城小幡の下に付き十六代目の
高政が小幡重貞の姪を娶って姻戚関係を結ぶ。
やがてその勢力は上日野全域と下日野・三波川・塩沢・天引・多比良
に拡大、定重(源六)の時代に全盛期。しかし、長篠では武田の一軍
として戦い定重戦死。後継の弟・定正は武田滅亡後に北条騎下、秀吉の
小田原攻めで敗北して郷士となる。
家康の時代に仕官を求めるも果たさず帰農郷士の道を選択。
小幡・高山が所領没収される中、小柏家は吉井藩に組み入れられ、
日野谷上流の山林支配権を得て後々まで維持し「山元」としての巨大な
権力の座に座りつづける。
御荷鉾山を含め3000町歩を支配したとはこの時代。此の間、農民を
半奴隷化したと言われる「家包」をも生み出した。
この権勢は明治まで続き、明治二十八年に生糸相場で失敗して全てを
横浜の豪商に乗っ取られるまで続いた。
大宮在住の直系の子孫は江戸時代の作と思われる系図を保有するが、
この時代は顧客に迎合して何でもありの系図売りが横行したときである
ので、小柏家が平維盛の系統であるかは疑問であるが、かっての主家筋の
高山家の古文書に多くの小柏関連の記述があると言うので、源平時代の後、
上日野に君臨していた事には間違いは無い。
因みに源六から6代目の重高は深く仏道を信じ、甘楽の黒滝山に一宇を
建立したがこれが今の「黒滝山不動寺」である。
下は黒滝山不動堂。

気候が良くなったらじっくりと小柏様の足跡を訪ねてみよう。

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