
漸く近親者の新盆含みの行事が終わったが、午後雷雨と毎日
脅かされて遠出に踏ん切りが付かない。
気晴らしに城山三郎を数冊持って榛名湖で読書と決めてR-126。
例によって途中で寄り道ばかりしたのでカテゴリーは史跡探訪に
なつてしまう始末。
箕郷町中を抜けて少し登り道になる処の「下善地」のバス停前。
「下善地砦跡」の道標が庚申塔二基と供にある。砦跡は長野氏輩下の
物らしいが詳細記録は不明。


その反対側に彫りの深い「道陸神」の石碑。

Horiuchi 雑貨店を過ぎると中善地で右手に巨大な石碑、御近所
さんに聞いたら「馬頭尊」と読むそうだ。古い時代、農耕には馬が
欠かせなかったろう。1900年、神谷沖谷書と伝わる3Mのもの。

少し先の左側の二連石灯籠の奥に曰くありげな墓石風なもの。
これも斜向かいのお宅で聞いたら「おぎょうさま」だと言う。
「おぎょうさま」→「お行さま」と連想すれば多分「行人塚」。
左の石灯篭には六地蔵の彫り。

更に進むと善地で「月波神社」の石柱。祭神は「大山津見神」。
イザナギとイザナミが両親、「津」は「の」の意味で「見」は
「神霊」の事だから「大いなる山の神」、とすると「大山祇神」?

芝生の参道を進むと石の鳥居、銘は寛延元年1748年、額には
「従四位下月並神社」。

参道は真っ直ぐ伸びてR-154(新井・下室田線)を突っ切る。
この道は古くは箕輪の町から地蔵峠を通って榛名神社へ参詣する
街道だった。「月波」は「月次」の事、この地で毎月榛名神社を
遥拝した場所だろう。里宮の役割に近いかも知れない。
車道の先から直ぐに石段で二階建ての楼門を潜る。

R-154は榛東・新井から発して室田街道・下村信号までの新井・下室田線。
狛犬のお出迎え、左側のは何やらにんまり笑っているが

右側のは怖い顔、だが実はこっちは昔は大口開いて高笑いの
顔だったらしいが上顎部分が鼻共々欠落して顔が変貌したらしい。

境内には元禄期の四基の石灯篭が配置され

これが拝殿、その奥に続いて本殿。江戸中期の建造。

拝殿の右に4Mの立派な五重の塔、江戸後期の高遠石工の作らしいが
残念ながら銘が無いので文化財指定から外れている。

左隅に手洗い石、宝永三年(1706年)の銘。五代綱吉の末期。

拝殿の掲額はどう見ても「月波」ではなく「月並神社」。

見ものは本殿側面に彫られた浦島太郎の物語。
本殿の左右のケヤキ板に浦島物語の亀を助ける場面と
亀に乗って竜宮に行く場面が彫られていることになっているが
何故か背面にもあって都合三面。但し、囲い物が邪魔でそれに
距離があってはっきり分かる写真は撮れなかった。



更に進むと「群馬の松」の入り口。

土手を降りて車川を渡る。土台は低く増水時は渡河禁止。

約100Mほどの上流中州にこんな注意看板を見ながら進むと

突き当たりの広場に群馬の松。現在の上部を切られた
松は四代目。初代は資料なしで不明。二代目は「霊松」と言われて
樹齢800年、「神松」の三代目は樹齢210年。この双樹を「霊木群馬の松」
と称した。霊松は1908年に地元の地籍争いに巻き込まれて
伐採され、神松は1936年に雪害で倒伏。で今は四代目。

1925年の「群馬群誌」から転記すると
「上毛榛原の榛峰の南に聳える群馬の松は神異の霊木にして
大旱の年、里人の祈ることあれば速やかに甘雨を降らし蒼生を
潤すこと顕然なりーーー」。
だが、群馬の名の発祥云々が良く分からない。察するにこの地には
古墳時代に「車持氏」なる豪族がいた。そしてその勢力範囲が
「クルマ」と呼ばれやがて「ぐんま」に転化し
「グンマはクルマから始まった」と云われるのだろう。
次ページに続く
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脅かされて遠出に踏ん切りが付かない。
気晴らしに城山三郎を数冊持って榛名湖で読書と決めてR-126。
例によって途中で寄り道ばかりしたのでカテゴリーは史跡探訪に
なつてしまう始末。
箕郷町中を抜けて少し登り道になる処の「下善地」のバス停前。
「下善地砦跡」の道標が庚申塔二基と供にある。砦跡は長野氏輩下の
物らしいが詳細記録は不明。


その反対側に彫りの深い「道陸神」の石碑。

Horiuchi 雑貨店を過ぎると中善地で右手に巨大な石碑、御近所
さんに聞いたら「馬頭尊」と読むそうだ。古い時代、農耕には馬が
欠かせなかったろう。1900年、神谷沖谷書と伝わる3Mのもの。

少し先の左側の二連石灯籠の奥に曰くありげな墓石風なもの。
これも斜向かいのお宅で聞いたら「おぎょうさま」だと言う。
「おぎょうさま」→「お行さま」と連想すれば多分「行人塚」。
左の石灯篭には六地蔵の彫り。

更に進むと善地で「月波神社」の石柱。祭神は「大山津見神」。
イザナギとイザナミが両親、「津」は「の」の意味で「見」は
「神霊」の事だから「大いなる山の神」、とすると「大山祇神」?

芝生の参道を進むと石の鳥居、銘は寛延元年1748年、額には
「従四位下月並神社」。

参道は真っ直ぐ伸びてR-154(新井・下室田線)を突っ切る。
この道は古くは箕輪の町から地蔵峠を通って榛名神社へ参詣する
街道だった。「月波」は「月次」の事、この地で毎月榛名神社を
遥拝した場所だろう。里宮の役割に近いかも知れない。
車道の先から直ぐに石段で二階建ての楼門を潜る。

R-154は榛東・新井から発して室田街道・下村信号までの新井・下室田線。
狛犬のお出迎え、左側のは何やらにんまり笑っているが

右側のは怖い顔、だが実はこっちは昔は大口開いて高笑いの
顔だったらしいが上顎部分が鼻共々欠落して顔が変貌したらしい。

境内には元禄期の四基の石灯篭が配置され

これが拝殿、その奥に続いて本殿。江戸中期の建造。

拝殿の右に4Mの立派な五重の塔、江戸後期の高遠石工の作らしいが
残念ながら銘が無いので文化財指定から外れている。

左隅に手洗い石、宝永三年(1706年)の銘。五代綱吉の末期。

拝殿の掲額はどう見ても「月波」ではなく「月並神社」。

見ものは本殿側面に彫られた浦島太郎の物語。
本殿の左右のケヤキ板に浦島物語の亀を助ける場面と
亀に乗って竜宮に行く場面が彫られていることになっているが
何故か背面にもあって都合三面。但し、囲い物が邪魔でそれに
距離があってはっきり分かる写真は撮れなかった。



更に進むと「群馬の松」の入り口。

土手を降りて車川を渡る。土台は低く増水時は渡河禁止。

約100Mほどの上流中州にこんな注意看板を見ながら進むと

突き当たりの広場に群馬の松。現在の上部を切られた
松は四代目。初代は資料なしで不明。二代目は「霊松」と言われて
樹齢800年、「神松」の三代目は樹齢210年。この双樹を「霊木群馬の松」
と称した。霊松は1908年に地元の地籍争いに巻き込まれて
伐採され、神松は1936年に雪害で倒伏。で今は四代目。

1925年の「群馬群誌」から転記すると
「上毛榛原の榛峰の南に聳える群馬の松は神異の霊木にして
大旱の年、里人の祈ることあれば速やかに甘雨を降らし蒼生を
潤すこと顕然なりーーー」。
だが、群馬の名の発祥云々が良く分からない。察するにこの地には
古墳時代に「車持氏」なる豪族がいた。そしてその勢力範囲が
「クルマ」と呼ばれやがて「ぐんま」に転化し
「グンマはクルマから始まった」と云われるのだろう。
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