道端の百日紅や向日葵を見ながら尚も進む。
右手に古い半鐘が未だ残っている。大正・昭和の時代には活躍した
のだろう。
民家の間に薬師如来像。散歩の人と話しこむ。
反対側のこの山の上にある北向観音と相対しているそうだ。
南・東の榛名林道四つ角近くに小さな「駒寄神社」。村社でもない
無格社なので殆ど記録は無いが、本来の名は「分霊月波神社」。
1861年に月波神社から分霊されたが、2005年に榛名神社より
神霊を迎えて独立して改めて「駒寄神社」。
こんな石宮が幾つかあるだけで夏草茫々。
林道四つ角に常夜灯、1833年建立だから天保大飢饉の時。
因みに爺イの生年より丁度100年前とは個人的因縁。
その反対側に1805年の「十二大権現」、間宮林蔵の樺太探検の年。
大山祇神(おおやまずみのかみ)の娘で天孫ニニギノミコトの妃、
富士山の神の権化。
前ノ沢林道手前に不動明王。
その先に1718年の観音像、大岡越前が町奉行になった年。
R-126の歴史探訪対象はここで終了。榛名湖へ。湖畔はやや雲が
多くて予想以上に涼しくて快適。
決まりきった定番でややマンネリながら矢張り周囲の景観。
榛名富士
硯岩、覗岩ではない。
右の烏帽子と左に鬢櫛。
馬車は相変わらず客待ち顔。
一寸、天神峠に寄り石灯籠。
新治村の豪商・塩原太助(1743-1816)が1815年に寄進したもの。
高さ7Mと云われ1982年に旧天神峠から移転したと聞く。
太助は道路改修や治水事業にも功がある人物で没後の1878年に
園朝が「塩原多助一代記」を創作したので世に知られたが
本名は太助で「多助」は芝居上の名前。
台石や天蓋の裏に多くの彫り字があるが距離があって詳細不明。
製作者の高遠石工・藤沢政吉などの名が刻まれている筈。
漸く見物終了で再び榛名湖畔、体感気温は28℃以下で風が涼しくて気分爽快。
北岸の吾妻側の日陰に駐車、早くも路傍駐車がいっぱい。陣地を確保して
湖の賑わいを見物。
バス釣りの人たちは多くは岸辺からだが珍しくも女性がポート釣り。
その間を縫って二人連れがボート漕ぎ、この風景は何十年も変らないな。
モーターポートも軽快に走り回るがその軌跡の作る小波が
間断なく岸辺に押し寄せて釣りの邪魔になっているようだ。
遊覧船は「湖畔の宿」の曲を鳴らしながら。
湖面を渡る風は最初こそ涼しいと感じたが、時間が経つに従って
湿気が多く剥き出しの腕や足にべっとりと纏わり付いてやや
興を殺ぐ。
昼を過ぎ、持参の豪華?弁当を食べてからこんな格好で城山三郎に
集中。
だが、数時間で山から雲が湧いて来るのを見てさっさと退散、
嬬恋の山行き予定は何時になることやら。
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右手に古い半鐘が未だ残っている。大正・昭和の時代には活躍した
のだろう。
民家の間に薬師如来像。散歩の人と話しこむ。
反対側のこの山の上にある北向観音と相対しているそうだ。
南・東の榛名林道四つ角近くに小さな「駒寄神社」。村社でもない
無格社なので殆ど記録は無いが、本来の名は「分霊月波神社」。
1861年に月波神社から分霊されたが、2005年に榛名神社より
神霊を迎えて独立して改めて「駒寄神社」。
こんな石宮が幾つかあるだけで夏草茫々。
林道四つ角に常夜灯、1833年建立だから天保大飢饉の時。
因みに爺イの生年より丁度100年前とは個人的因縁。
その反対側に1805年の「十二大権現」、間宮林蔵の樺太探検の年。
大山祇神(おおやまずみのかみ)の娘で天孫ニニギノミコトの妃、
富士山の神の権化。
前ノ沢林道手前に不動明王。
その先に1718年の観音像、大岡越前が町奉行になった年。
R-126の歴史探訪対象はここで終了。榛名湖へ。湖畔はやや雲が
多くて予想以上に涼しくて快適。
決まりきった定番でややマンネリながら矢張り周囲の景観。
榛名富士
硯岩、覗岩ではない。
右の烏帽子と左に鬢櫛。
馬車は相変わらず客待ち顔。
一寸、天神峠に寄り石灯籠。
新治村の豪商・塩原太助(1743-1816)が1815年に寄進したもの。
高さ7Mと云われ1982年に旧天神峠から移転したと聞く。
太助は道路改修や治水事業にも功がある人物で没後の1878年に
園朝が「塩原多助一代記」を創作したので世に知られたが
本名は太助で「多助」は芝居上の名前。
台石や天蓋の裏に多くの彫り字があるが距離があって詳細不明。
製作者の高遠石工・藤沢政吉などの名が刻まれている筈。
漸く見物終了で再び榛名湖畔、体感気温は28℃以下で風が涼しくて気分爽快。
北岸の吾妻側の日陰に駐車、早くも路傍駐車がいっぱい。陣地を確保して
湖の賑わいを見物。
バス釣りの人たちは多くは岸辺からだが珍しくも女性がポート釣り。
その間を縫って二人連れがボート漕ぎ、この風景は何十年も変らないな。
モーターポートも軽快に走り回るがその軌跡の作る小波が
間断なく岸辺に押し寄せて釣りの邪魔になっているようだ。
遊覧船は「湖畔の宿」の曲を鳴らしながら。
湖面を渡る風は最初こそ涼しいと感じたが、時間が経つに従って
湿気が多く剥き出しの腕や足にべっとりと纏わり付いてやや
興を殺ぐ。
昼を過ぎ、持参の豪華?弁当を食べてからこんな格好で城山三郎に
集中。
だが、数時間で山から雲が湧いて来るのを見てさっさと退散、
嬬恋の山行き予定は何時になることやら。
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武田勝頼が天目山で虐殺されたのが天正10年で
天正15年(1587年)には既に秀吉が太政大臣で聚楽第を作ったときです。
箕輪攻めの最後は永禄9年(1566年)ですから
その頃と思います。
現在は思い当たりませんが色々調べてみます。
榛名神社から唐松に抜ける地蔵峠(鐘原ヶ岳の西北端)があります。下記記録末尾の蛇足記事を
ご覧ください。
武田が箕輪を包囲したときに抑えた峠ですが
幻的ではないのでお探しのものかどうかは
疑問ですが。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/866071aec18202455b2f7eab1c120159
お説を友人に伝えたところ、やや不確かな知識でした。さらに詳細を検討してご質問致します。何しろ戦は武田と上杉らしいのです。再調査の上ご質問させていただきます。
なにやら埋蔵金探しに似た臭いを感じます。古希に間近い昔の少年が夢中です。
参考のご意見が御座いましたら宜しくご指導ください。
情報だけは知っています。
位置は旧高山村の「赤根峠」から東南に入った
ところで、中山城の北、名胡桃城の南西に当たります。現在、遺構が直ぐ分かるのかは疑問です。城址研究の故・山崎一氏の命名と聞いていますが地元郷土史家からは猛烈な異議が出ていて「権現山城」と言い直すように求められています。
この城には大した戦記は無いと思われますが
1590年の秀吉・小田原攻めの遠因になった「名胡桃事件」で僅かに名が出てます。
長年に亘る沼田を巡る真田と後北条の抗争に
秀吉の裁定が出た1589年に北条の沼田城代・猪俣邦憲は謀略を使って真田の名胡桃城を奪取しますがその時の拠点が榛名峠城でした。
この事が惣無事令違反とされて北条は滅亡するのです。
鈴ヶ岳北西の原生林踏破も残り一箇所となりました。しっかりと記録を残したいと思います。踏破のルートも殆ど把握しました。新たな情報がありましたらご報告します。
居られました。
http://blogs.yahoo.co.jp/hige_5688/60872852.html
位置はこのページ下段の地図をご参照ください。
http://www.hb.pei.jp/shiro/kouzuke/nagurumi-jyo/