暖気に誘われて本日は天引森林公園から通称・亀穴峠道を使って鳥屋峠、
そこから旧亀穴集落共同墓地の探索、帰路は吉井・甘楽・藤岡の分岐点にタッチして
摩利支天山(仮称)を乗り越えて市町境界線を辿って森林公園遊歩道に下りてくると
云う地形図不要・ナビ不要の慣れ切った行程。
左足先の不快感は未だ解消されていない。先日、足の診断では有名な医師を尋ねて
診断をしてもらったが自己診断のモートン病ではなく血行・神経障害との宣告。
末梢神経修復薬や血行障害改善薬の投与で様子見だか何時もの腰痛退治の様に
強めのハイクで荒療治をする積り。
その上に、H-19-3に「元・亀穴集落の住人」さんに約束した墓地の現況偵察が
失敗続きで未だ果たされて居ないので今度こそ成功させたいとの願い。
R-71の「川内」でR-254に乗り換えて約4K西進して新屋駅入り口の金井信号を左折、
3Kで左の鳥屋林道道標で左折して細い道を2.5Kですっかり寂れた天引森林公園園地。
かっての賑やかな時代の名残で立派なトイレ、周囲に廃屋が多い中で唯一健在の
一軒屋からも人の気配は無い(9.49)。
園地の西側に峠道入り口、両側の笹が覆いかぶさって赤テープが無ければ
初めての人には判り難いだろう。
笹の下を潜ると直ぐに左右に廃屋が一軒づつ。右に行き易いがここは左のこの腐った
小さな丸木橋を渡って
左の廃屋の脇を進む。
進路には障害物が連続するが道形ははっきりしているので安心。
傾斜のややきつい蛇行を繰り返しながら斜面を登り兎に角、稜線を目指す。
一旦、高度が保たれると平坦路が延びている。
右斜面の中腹に大型の石宮。
左下は深い渓谷だが水量が僅かなので水音は全く聞こえず森閑としたルート。
やがて目印の大銀杏、秋にはこの周辺が落ち葉で黄金色に染まって見事である。
かってこの先で熊に遭遇した事がある。以後、熊との遭遇は四回も経験している
ので今では左程には慌てないとは思っているが、この時は初体験だったので
全身硬直して身動きがとれずにしゃがみ込み熊が去ってから大急ぎで
逃げ帰った記憶がある。
当時、爺イが参考にしていた原三角測点発見者のamanoさんの「甘楽の峠・亀穴峠」
のページに「熊目撃情報」が載せられたのはこの時の通報による。
やがてこんな場所で沢を渡って右岸に移る。かつては木橋でも架かっていたかも。
間もなく、白杭の所で本流と分かれて左岸に移り支流の右岸を登る。
伐採材や倒木が多く横たわり、川床も上がってきたので峠道と沢の区別も
困難になる。
漸く第二の目印。この白杭の所で完全に沢と分かれて鋭角に切り替えして
東南の稜線に向かう。
ある程度の登りを経ると緩い傾斜の東への林間の道。上り切ると進路は
東南に変わる。
最初の分岐は右。左に行くと前方の大沢に落ちてしまう。二つ目のY字分岐も
右を選択して上への道。
傾斜が徐々に増してくる中、倒木も多くなる。根元から引き抜かれたような
倒れ方は台風などの影響かな。
第三の目印の小さな乗り越しを通過すると前面は薄暗い林が暫く続く(10.57)。
やがて第四の目印の大分岐前に到着。右の沢から斜面を登る峠道、正面は小コブ
の乗り越え、左は沢と言うより窪登り。何れも鳥屋峠100M手前で合流する。
その何れも過去に経験しているので今日は右角の急斜面を登りながら大きく北側に
トラバースして新稜線に登り上げ「堂の入林道」に繋がる
稜線に合流して亀穴峠北側に破線で描かれている本来の峠道を捉える試み。
斜面を観察して立ち木の隙間を狙って取り付く。
傾斜が厳しいので北にトラバースしながら徐々に高度を稼ぐ。
横を見たら傾斜の程度は半端ではない。こんな試みを悔やんだがこの傾斜では
引き返しのほうが危険なので我慢して一歩一歩慎重に進む。
長時間を要し疲労困憊で漸く新稜線のコブの上で大休止。東を見ると帰路に使う予定の
吉井・甘楽の境界尾根がよく見える。
ここからは南北の大稜線を目指してやや南に湾曲する稜線を進む。
合流すると早くも正面に亀穴山(仮称、鳥屋峠と亀穴峠の中間突起)が見える。
と、目の前に東西に走る明瞭な道。これが地形図上の北側峠道だ。
右へ行けば亀穴峠、左へ行けば鳥屋峠。
左を選択して僅かに下りながら山の縁を巡って進むとポンとさっきの峠道の延長に合流。
かってこの道を探索したときに付けたテープが健在(12.01)。
先程のコブ越えや窪登りの道を合わせながら約100mで鳥屋峠着。さっきの苦戦のためか
足の疲れが酷い。この写真は藤岡側からのもの。
この峠にはこのコンクリート製の古い境界杭以外には何も無い。下に転がっているのは
腐って落下した爺イの標識。かって存在したN.G氏の名刺判標識は螺子とブルーテープ
を樹幹に残すのみ。
かっての姿。
重い足を引きずるようにして藤岡側に下って道しるべの所で昼食・休憩。
道しるべの刻字が漢字なのは古いものではない。幕末・明治期のものは
ひらがな・変体仮名・当て字の漢字。これは大正十五年のもの。
「日本矢掛青年団」とあって軍事国家を目指した当時の世相が覗われる。
1912年、明治天皇が死去すると、天皇神格化の一環として明治天皇を祭神とした
明治神宮の建立が計画され内務省が神宮造営奉仕作業を全国の青年団に呼びかけ、
日本中より二百八十団体・一万五千人の青年団員が動員された。これを契機に、
全国の青年団を一つに結びつける組織、大日本連合青年団が結成され後に国策に
沿う活動によって軍国主義の一翼を担わされる。現在も各地に当時の青年団が
設置した道標が残っているのを目にすることが多い。
南に見える御荷鉾方面らしい山並みを見ながら大休止のあと、墓地の探索に掛かる。
亀穴峠付近の藤岡側破線は峠道ではなく作業道跡とは過去数回の踏査で判っている。
この道しるべから旧亀穴への峠道は稜線の南側を西に向かっているのだ。
道標から直ぐに西に進む。亀穴峠への登りを右に分けて踏み跡を直進すると
次第に山から離れつつ枯野に伸びている。でも、直ぐ右手は丁度峠の辺り。
数百mで広い緩斜面に人の手による石組みが点在して住居跡のような気配。
付近には水仙のような株が数多く見られる。この類の球根種は人が植えたとしか
思えない。
と、大木の陰に何か白いもの発見。
比較的新しいものと見えたが側面を見ると昭和31年の建立で施主が廃屋の主と伝わる
A氏だ。これが探し物と思いたかったが、「旧亀穴住人」さんの依頼は共同墓地の
現況だから違うかな?でもこれ以後、徹底的に探索したが共同墓地らしきものは
見つからなかった。若しかすると共同墓地は撤去された?
墓の正面の「耕岳自賛居士」という戒名を見てジンと来る。岩佐徹道氏の残した
「群馬の峠」の新屋峠の項に「一本杉の下に廃屋があつた。そこが開拓一家の
跡だった。開拓を諦めて山を下った一家であろう」とあるが耕岳自賛とあれば
悔いも無く誇りを持って生涯を終えたA氏の心意気が伝わる。
持参の蝋燭を点し線香や供え物を揃えて墓参。
更に道跡を辿ると見覚えのあるA氏の住宅跡、ここから下るとT氏の納屋が二階建ての
まま残っているはず(13.03)。
一応、これで探索は終了として新屋峠に戻る。すっかり疲れた本日の爺イ(13.39)。
一休みして周回の帰路に着く。峠から先ずは藤岡・甘楽境界尾根を東進するのだ。
尾根は軽い登りの歩きやすい道。だが、疲れた足には僅かの上りもジワリと重い。
左手に摩利支天が見えた。
北進の角までには四つの小コブやピークが存在して休止が多くなる。
何とか甘楽町東南端のコーナーピークを通過して振り返り北に向かう。
吉井との分岐にN.G氏の「小梨峠へ」の道標。随分遠くを指したものだ。
その下に吉井・甘楽・藤岡の境界杭。
一呼吸置いて尚も北進を続けて摩利支天山の乗り越しに掛かるが、北から見ると
錐の先の様な峻峰も稜線の高度が高い此処からは唯のなだらかな丘に過ぎない。
一歩きで頂上着、三角点・裡山がお出迎え。
仮称山名の元になっている石碑。
下山開始、このゲート状のテープ目印から急降開始(14.34)。
スタート位置の境界杭はきりのよいNO.601。
ここの下りは稜線も窪も全く同じ傾斜なので足元ばかり見て下り僅かに方向が
違っただけで深い窪に落ち込む危険があるので常に稜線をはずさないように
左目に下る必要がある。傾斜の程度はこんな具合。
尾根に到達するとこんなテープや
見つけやすい見出し票が多数。
たまにはこんな藪もあるが構わず直進すれば必ず次の境界杭がある。
気をつけるのは先ずNO.583杭の稜線分岐、左に行き易いがぐっと堪えて右へ。
次のNO.582は右が綺麗だがそれに釣られずに荒れた左を選択。
NO.575も大事なポイント、吉井・大判地に帰るならここから右斜面を滑り降りる。
その下り口にはゲート状にテープを付けてある。
下りは膝に響く。ガクガクしだした頃、下に遊歩道の木枠が見えて下山は終了。
遊歩道との分岐目印はNO.572。地形図上の535M地点の150Mほど西。
ゆっくりと遊歩道を下る。
途中に本日最大の通せんぼ。大分荒れ道だ。
下るにつれて現れる沢も相当傷められている。
遊歩道自体もこんな有様で夏場の雑草繁茂期には観光客も嫌がるだろう。
売り物の「流路工」は健在。
漸く舗装路に入るとモグラ君が名誉の戦死? 落ち葉の下に隠してやった。
東屋が見えたところから適当に左に下って駐車場へ。
案内図の位置で無事帰着(15.55)。12500歩のハイクだったが帰宅後にも足に異常なし。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
そこから旧亀穴集落共同墓地の探索、帰路は吉井・甘楽・藤岡の分岐点にタッチして
摩利支天山(仮称)を乗り越えて市町境界線を辿って森林公園遊歩道に下りてくると
云う地形図不要・ナビ不要の慣れ切った行程。
左足先の不快感は未だ解消されていない。先日、足の診断では有名な医師を尋ねて
診断をしてもらったが自己診断のモートン病ではなく血行・神経障害との宣告。
末梢神経修復薬や血行障害改善薬の投与で様子見だか何時もの腰痛退治の様に
強めのハイクで荒療治をする積り。
その上に、H-19-3に「元・亀穴集落の住人」さんに約束した墓地の現況偵察が
失敗続きで未だ果たされて居ないので今度こそ成功させたいとの願い。
R-71の「川内」でR-254に乗り換えて約4K西進して新屋駅入り口の金井信号を左折、
3Kで左の鳥屋林道道標で左折して細い道を2.5Kですっかり寂れた天引森林公園園地。
かっての賑やかな時代の名残で立派なトイレ、周囲に廃屋が多い中で唯一健在の
一軒屋からも人の気配は無い(9.49)。
園地の西側に峠道入り口、両側の笹が覆いかぶさって赤テープが無ければ
初めての人には判り難いだろう。
笹の下を潜ると直ぐに左右に廃屋が一軒づつ。右に行き易いがここは左のこの腐った
小さな丸木橋を渡って
左の廃屋の脇を進む。
進路には障害物が連続するが道形ははっきりしているので安心。
傾斜のややきつい蛇行を繰り返しながら斜面を登り兎に角、稜線を目指す。
一旦、高度が保たれると平坦路が延びている。
右斜面の中腹に大型の石宮。
左下は深い渓谷だが水量が僅かなので水音は全く聞こえず森閑としたルート。
やがて目印の大銀杏、秋にはこの周辺が落ち葉で黄金色に染まって見事である。
かってこの先で熊に遭遇した事がある。以後、熊との遭遇は四回も経験している
ので今では左程には慌てないとは思っているが、この時は初体験だったので
全身硬直して身動きがとれずにしゃがみ込み熊が去ってから大急ぎで
逃げ帰った記憶がある。
当時、爺イが参考にしていた原三角測点発見者のamanoさんの「甘楽の峠・亀穴峠」
のページに「熊目撃情報」が載せられたのはこの時の通報による。
やがてこんな場所で沢を渡って右岸に移る。かつては木橋でも架かっていたかも。
間もなく、白杭の所で本流と分かれて左岸に移り支流の右岸を登る。
伐採材や倒木が多く横たわり、川床も上がってきたので峠道と沢の区別も
困難になる。
漸く第二の目印。この白杭の所で完全に沢と分かれて鋭角に切り替えして
東南の稜線に向かう。
ある程度の登りを経ると緩い傾斜の東への林間の道。上り切ると進路は
東南に変わる。
最初の分岐は右。左に行くと前方の大沢に落ちてしまう。二つ目のY字分岐も
右を選択して上への道。
傾斜が徐々に増してくる中、倒木も多くなる。根元から引き抜かれたような
倒れ方は台風などの影響かな。
第三の目印の小さな乗り越しを通過すると前面は薄暗い林が暫く続く(10.57)。
やがて第四の目印の大分岐前に到着。右の沢から斜面を登る峠道、正面は小コブ
の乗り越え、左は沢と言うより窪登り。何れも鳥屋峠100M手前で合流する。
その何れも過去に経験しているので今日は右角の急斜面を登りながら大きく北側に
トラバースして新稜線に登り上げ「堂の入林道」に繋がる
稜線に合流して亀穴峠北側に破線で描かれている本来の峠道を捉える試み。
斜面を観察して立ち木の隙間を狙って取り付く。
傾斜が厳しいので北にトラバースしながら徐々に高度を稼ぐ。
横を見たら傾斜の程度は半端ではない。こんな試みを悔やんだがこの傾斜では
引き返しのほうが危険なので我慢して一歩一歩慎重に進む。
長時間を要し疲労困憊で漸く新稜線のコブの上で大休止。東を見ると帰路に使う予定の
吉井・甘楽の境界尾根がよく見える。
ここからは南北の大稜線を目指してやや南に湾曲する稜線を進む。
合流すると早くも正面に亀穴山(仮称、鳥屋峠と亀穴峠の中間突起)が見える。
と、目の前に東西に走る明瞭な道。これが地形図上の北側峠道だ。
右へ行けば亀穴峠、左へ行けば鳥屋峠。
左を選択して僅かに下りながら山の縁を巡って進むとポンとさっきの峠道の延長に合流。
かってこの道を探索したときに付けたテープが健在(12.01)。
先程のコブ越えや窪登りの道を合わせながら約100mで鳥屋峠着。さっきの苦戦のためか
足の疲れが酷い。この写真は藤岡側からのもの。
この峠にはこのコンクリート製の古い境界杭以外には何も無い。下に転がっているのは
腐って落下した爺イの標識。かって存在したN.G氏の名刺判標識は螺子とブルーテープ
を樹幹に残すのみ。
かっての姿。
重い足を引きずるようにして藤岡側に下って道しるべの所で昼食・休憩。
道しるべの刻字が漢字なのは古いものではない。幕末・明治期のものは
ひらがな・変体仮名・当て字の漢字。これは大正十五年のもの。
「日本矢掛青年団」とあって軍事国家を目指した当時の世相が覗われる。
1912年、明治天皇が死去すると、天皇神格化の一環として明治天皇を祭神とした
明治神宮の建立が計画され内務省が神宮造営奉仕作業を全国の青年団に呼びかけ、
日本中より二百八十団体・一万五千人の青年団員が動員された。これを契機に、
全国の青年団を一つに結びつける組織、大日本連合青年団が結成され後に国策に
沿う活動によって軍国主義の一翼を担わされる。現在も各地に当時の青年団が
設置した道標が残っているのを目にすることが多い。
南に見える御荷鉾方面らしい山並みを見ながら大休止のあと、墓地の探索に掛かる。
亀穴峠付近の藤岡側破線は峠道ではなく作業道跡とは過去数回の踏査で判っている。
この道しるべから旧亀穴への峠道は稜線の南側を西に向かっているのだ。
道標から直ぐに西に進む。亀穴峠への登りを右に分けて踏み跡を直進すると
次第に山から離れつつ枯野に伸びている。でも、直ぐ右手は丁度峠の辺り。
数百mで広い緩斜面に人の手による石組みが点在して住居跡のような気配。
付近には水仙のような株が数多く見られる。この類の球根種は人が植えたとしか
思えない。
と、大木の陰に何か白いもの発見。
比較的新しいものと見えたが側面を見ると昭和31年の建立で施主が廃屋の主と伝わる
A氏だ。これが探し物と思いたかったが、「旧亀穴住人」さんの依頼は共同墓地の
現況だから違うかな?でもこれ以後、徹底的に探索したが共同墓地らしきものは
見つからなかった。若しかすると共同墓地は撤去された?
墓の正面の「耕岳自賛居士」という戒名を見てジンと来る。岩佐徹道氏の残した
「群馬の峠」の新屋峠の項に「一本杉の下に廃屋があつた。そこが開拓一家の
跡だった。開拓を諦めて山を下った一家であろう」とあるが耕岳自賛とあれば
悔いも無く誇りを持って生涯を終えたA氏の心意気が伝わる。
持参の蝋燭を点し線香や供え物を揃えて墓参。
更に道跡を辿ると見覚えのあるA氏の住宅跡、ここから下るとT氏の納屋が二階建ての
まま残っているはず(13.03)。
一応、これで探索は終了として新屋峠に戻る。すっかり疲れた本日の爺イ(13.39)。
一休みして周回の帰路に着く。峠から先ずは藤岡・甘楽境界尾根を東進するのだ。
尾根は軽い登りの歩きやすい道。だが、疲れた足には僅かの上りもジワリと重い。
左手に摩利支天が見えた。
北進の角までには四つの小コブやピークが存在して休止が多くなる。
何とか甘楽町東南端のコーナーピークを通過して振り返り北に向かう。
吉井との分岐にN.G氏の「小梨峠へ」の道標。随分遠くを指したものだ。
その下に吉井・甘楽・藤岡の境界杭。
一呼吸置いて尚も北進を続けて摩利支天山の乗り越しに掛かるが、北から見ると
錐の先の様な峻峰も稜線の高度が高い此処からは唯のなだらかな丘に過ぎない。
一歩きで頂上着、三角点・裡山がお出迎え。
仮称山名の元になっている石碑。
下山開始、このゲート状のテープ目印から急降開始(14.34)。
スタート位置の境界杭はきりのよいNO.601。
ここの下りは稜線も窪も全く同じ傾斜なので足元ばかり見て下り僅かに方向が
違っただけで深い窪に落ち込む危険があるので常に稜線をはずさないように
左目に下る必要がある。傾斜の程度はこんな具合。
尾根に到達するとこんなテープや
見つけやすい見出し票が多数。
たまにはこんな藪もあるが構わず直進すれば必ず次の境界杭がある。
気をつけるのは先ずNO.583杭の稜線分岐、左に行き易いがぐっと堪えて右へ。
次のNO.582は右が綺麗だがそれに釣られずに荒れた左を選択。
NO.575も大事なポイント、吉井・大判地に帰るならここから右斜面を滑り降りる。
その下り口にはゲート状にテープを付けてある。
下りは膝に響く。ガクガクしだした頃、下に遊歩道の木枠が見えて下山は終了。
遊歩道との分岐目印はNO.572。地形図上の535M地点の150Mほど西。
ゆっくりと遊歩道を下る。
途中に本日最大の通せんぼ。大分荒れ道だ。
下るにつれて現れる沢も相当傷められている。
遊歩道自体もこんな有様で夏場の雑草繁茂期には観光客も嫌がるだろう。
売り物の「流路工」は健在。
漸く舗装路に入るとモグラ君が名誉の戦死? 落ち葉の下に隠してやった。
東屋が見えたところから適当に左に下って駐車場へ。
案内図の位置で無事帰着(15.55)。12500歩のハイクだったが帰宅後にも足に異常なし。
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このページをご覧になる機会があることを祈ります。
貴兄と約束したのがH-19-3ですが数回の探索に
失敗していました。今回、A氏の墓所を発見しましたが
ご指定の共同墓地は見つかりません。
若しかすると撤去整理されたのかも知れません。
以上、内容不備ながら六年越しのお約束は
果たしたことにして頂き度く。
読んで頂き肩の荷が降りた感じです。決して
ご満足戴ける内容ではないですが
ご勘弁下さい。小生既に84歳を越え今は
おまけで生きている程度なので亀穴峠方面は
天引森林公園からの峠道が壊滅状態になっている
ことも重なって年一回程度しか行っていません。
貴兄のご活躍を祈っています。