群馬の石仏の話になると、「高遠の石工」と言う表現を目にする。江戸時代に
信州・高遠藩が苦しい藩の財政を補うために農家の次男・三男に石切や石像
彫刻の技量を拾得させ「旅稼ぎの石工」として各地に派遣して稼ぎの一部を
冥加金として上納させた史実がある。この出稼ぎ石工たちが西毛地区で多く
の優れた作品を残し、地元の石工達もそれに倣ったので群馬は石仏の宝庫に
なったと言う事らしい。
個々の石像に彼らのサインがあるわけではないが、唯一、安中・八本木の
地蔵堂に数十名の高遠石工の名が残されていると聞いて雨の中、見に
行ってきた。18号線で西進して、安中実業信号を右折して旧道に入る。
原市杉並木を通過して左手に今は児童公園になっている「忠魂碑」脇に
駐車。近くに原市公民館。
少し先の右手に大きな地蔵堂があり、その境内の「聖徳太子孝養像」の台座
の四面全てにそれは刻まれていた。勿論、雨の中、判読は良く出来ないが。
高遠(合併により伊那市高遠町)と言うと今では桜の名所としてしか語られ
ないが、歴史好きの者にとっては、武田末期の仁科盛信の悲劇の城として、
又幕末の会津藩の精神構造の基を作った保科正之の出身地として印象深い。
登山紀行ブログにコンな話は関係無いが、序での事にひと講釈。
元々、戦国時代には高遠は諏訪氏の一族・高遠氏の地盤。信玄の時代に
武田に降って支配下に入り後に仁科氏が城主となっていた。
1582年、遂に織田・徳川連合の武田攻めが始まる。既に勝頼の命令
には従わない者が続出。木曾義昌の裏切りに始まり、穴山梅雪は寝返り、
信豊と逍遥軒の戦線離脱など。独り気を吐いたのが信玄の政略で仁科氏
の名跡を継いでいた高遠城主(信玄五男)の仁科盛信、妹・松姫の嫁ぎ
先でもある織田信忠の投降勧告にも拘わらず、異母兄・勝頼の為に果敢
に闘って城兵諸とも全滅し、武田に殉じた。
武田滅亡後の高遠は家康の支配下になり保科正俊が城主、この正俊なる
もの、元はと言えば武田の家臣で「戦国の三弾正」の一人。因みに三弾正
とは「逃げ弾正・高坂昌信」「攻め弾正・真田幸隆」「槍弾正・保科正俊」
である。
武田滅亡後に家康に召し抱えられたのである。関が原の戦いの後、その孫の
正光の時代に高遠藩が成立する。ここで又もや事件、史上に名高い恐妻家・
秀忠が怖い「於江与」の目を盗んで春日局の侍女に手をつけてしまう。
秀忠はこの女を梅雪未亡人・見性院に預け、生まれた子は保科正之として
保科正光が養育する。後に家督を継いだ正之は「於江与」の死により晴れて
家光の弟として認知され山形藩主を経て会津藩主。熱烈な朱子学の徒として
好学尚武の藩風を作り上げ、徳川家に対する絶対的な服従を家訓として残す。
徳川光圀・池田光政とともに江戸初期の三名君とされるが朱子学以外の学問を
弾圧して山鹿素行を赤穂藩に追放したことが赤穂浪士と山鹿流軍学との結び
つきとなる。この気風は幕末までも引き継がれ会津藩は幕府に殉じ白虎隊の
悲劇も引き起こす。
以上、「高遠の石工」からの連想の一席。
あっ!もう一つ、高遠は「絵島・生島」事件の絵島が配流されたところで
「絵島囲み屋敷」か再現されているとの事。因みに生島は三宅島へ遠島。
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信州・高遠藩が苦しい藩の財政を補うために農家の次男・三男に石切や石像
彫刻の技量を拾得させ「旅稼ぎの石工」として各地に派遣して稼ぎの一部を
冥加金として上納させた史実がある。この出稼ぎ石工たちが西毛地区で多く
の優れた作品を残し、地元の石工達もそれに倣ったので群馬は石仏の宝庫に
なったと言う事らしい。
個々の石像に彼らのサインがあるわけではないが、唯一、安中・八本木の
地蔵堂に数十名の高遠石工の名が残されていると聞いて雨の中、見に
行ってきた。18号線で西進して、安中実業信号を右折して旧道に入る。
原市杉並木を通過して左手に今は児童公園になっている「忠魂碑」脇に
駐車。近くに原市公民館。
少し先の右手に大きな地蔵堂があり、その境内の「聖徳太子孝養像」の台座
の四面全てにそれは刻まれていた。勿論、雨の中、判読は良く出来ないが。
高遠(合併により伊那市高遠町)と言うと今では桜の名所としてしか語られ
ないが、歴史好きの者にとっては、武田末期の仁科盛信の悲劇の城として、
又幕末の会津藩の精神構造の基を作った保科正之の出身地として印象深い。
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元々、戦国時代には高遠は諏訪氏の一族・高遠氏の地盤。信玄の時代に
武田に降って支配下に入り後に仁科氏が城主となっていた。
1582年、遂に織田・徳川連合の武田攻めが始まる。既に勝頼の命令
には従わない者が続出。木曾義昌の裏切りに始まり、穴山梅雪は寝返り、
信豊と逍遥軒の戦線離脱など。独り気を吐いたのが信玄の政略で仁科氏
の名跡を継いでいた高遠城主(信玄五男)の仁科盛信、妹・松姫の嫁ぎ
先でもある織田信忠の投降勧告にも拘わらず、異母兄・勝頼の為に果敢
に闘って城兵諸とも全滅し、武田に殉じた。
武田滅亡後の高遠は家康の支配下になり保科正俊が城主、この正俊なる
もの、元はと言えば武田の家臣で「戦国の三弾正」の一人。因みに三弾正
とは「逃げ弾正・高坂昌信」「攻め弾正・真田幸隆」「槍弾正・保科正俊」
である。
武田滅亡後に家康に召し抱えられたのである。関が原の戦いの後、その孫の
正光の時代に高遠藩が成立する。ここで又もや事件、史上に名高い恐妻家・
秀忠が怖い「於江与」の目を盗んで春日局の侍女に手をつけてしまう。
秀忠はこの女を梅雪未亡人・見性院に預け、生まれた子は保科正之として
保科正光が養育する。後に家督を継いだ正之は「於江与」の死により晴れて
家光の弟として認知され山形藩主を経て会津藩主。熱烈な朱子学の徒として
好学尚武の藩風を作り上げ、徳川家に対する絶対的な服従を家訓として残す。
徳川光圀・池田光政とともに江戸初期の三名君とされるが朱子学以外の学問を
弾圧して山鹿素行を赤穂藩に追放したことが赤穂浪士と山鹿流軍学との結び
つきとなる。この気風は幕末までも引き継がれ会津藩は幕府に殉じ白虎隊の
悲劇も引き起こす。
以上、「高遠の石工」からの連想の一席。
あっ!もう一つ、高遠は「絵島・生島」事件の絵島が配流されたところで
「絵島囲み屋敷」か再現されているとの事。因みに生島は三宅島へ遠島。
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