明日は雨か雪との予報なので、先日に引き続いて箕郷地区の史跡と
伝説巡り。先ず前回見逃した業政公菩提寺の長純寺、それと
地図には載ってない伝説の「和田の館跡」と「極楽院跡」を
探すのが目的。
長純寺は鳴沢湖の北方なので車郷小学校脇を通って湖の北側の道を
梅林の方向に進むと直ぐに長純寺の看板。
やがて広大な敷地を有する寺、山の上の梅林まで広がった墓地群。
入り口に奪エバと閻魔様、
遠からず三途の河原でお世話になるので最近特に愛想良くご挨拶。
墓所とは云うが供養搭、丘の中腹に展開する墓地を通過した梅林の
中にそれはあった。数度の火災で移転を重ねて今の場所。
業政公の戒名にも「長純」の文字があったな、と想いながら拝礼。
正面の大きいのが業政の供養搭
右側が業政夫人のものとされる。
今度は和田の館を探しに「和田山地区」に向かう。箕郷の町中に戻って
安中線を南下、右手に西部病院を見てからコンビニ角を右折、中和田橋で
榛名白川を渡った突き当りが「和田山」地区。幸運にも直ぐに看板発見。
遥かの昔、建保元年(看板は建歴3年と書いてあるが建歴は2年まで)
鎌倉ご家人の中核・和田義盛は北條の挑発に乗せられ先に手を出して
しまい敗北。その中で六男・義信またはその子・正信、若しくは八男
・義国の何れかがこの地に逃れて蟄居生活を送り、やがて勢力を得て
赤坂庄に進出しそこを「和田」としたという。
小学校卒業直後に(S-20-3)高崎に疎開するまで鎌倉で生まれ育った爺イは
江ノ電の「和田塚」駅に名を残す和田義盛一統には悲劇の善玉武将として
格別な思い入れがある。
さて、この話が後年になつて井伊直政が箕輪城から移転して高崎と
名付けるまで高崎が和田と云われた由縁。戦国時代は和田城。
この地への逃避行中、和田氏の故郷三浦三社の神の誘導の話とか、
古来ここが和田氏の飛び領地である事を同行の和田氏別当松本兵部が
気付くなど多くの伝説を伴っている。高崎移転は1230年か1243年と
伝わるが、郷土史家の故・前沢辰夫氏は逃れて来たのは義国で高崎移転は
その子・正信が1230年としているがその文中1230年を「寛保二年」
としてあるが「寛喜二年」の誤りとは爺イの発見。
「上野国赤坂庄和田記」には「八男和田八郎義国、葛西西切抜、西上州
群馬郡和田山に退き蟄居す。然る後、同郡赤坂駅へ引き移住居なり」と
あるのでここらが出所かな?
だが、東鑑では義信・義国とも討ち死にになっているので、逃れたのは
義信嫡男で当時8歳と云われた正信が正解とする説も根強いと聞く。
現在、その跡には和田氏末裔本家を名乗る松本氏の豪勢な家がある。
驚いた事にご近所さんは殆ど「松本さん」で皆さん、和田氏末裔と
胸を張る。ある歴史先生は姓は地名から起きるもので姓から
地名は起こらないから全くの誤伝とこき下ろすが、この地にきて
由緒書付き系図を持って末裔という松本家集団の前で云えるかな。
松本は松本兵部から?
そう言えば、室田地区に500軒もある「清水さん」が清水冠者・
木曾義高の子孫を称しているのに似ている。義高は勿論の事、
木曾義仲の遺児、人質になっていた鎌倉からの逃亡に失敗して
埼玉で殺された筈だが、幸いにも室田に逃れて土着し清水家祖と
言う事になっているのだ。
義高伝説に関しての探訪記は手前味噌で申し訳ないが、
このURLをご参考に。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/76b3e1a1b1b3fd53803becb2be4ddf67
さて、かって郷土史家に発見されたという和田氏関連の墓地を
探してマゴマゴしていたら、ご本家松本さんの家人が案内をして
くれた。直ぐ近くの大きな松本家墓地の一隅に其れらしきもの。
但し、はっきりは判らず墓参の時にご先祖様として真っ先にお参りする
墓石を示してくれたが、数が多い。「九代様」と云ったが《鎌倉北条九代記》に
記載があるからかな?何の事やら此方の頭も800年戻ってしまって
やや混乱。
伝説にある三浦三社の内、勧請した熊野神社も鬼門の方角の直ぐ近く。
一通り案内してもらってから「極楽院」の場所を聞いたら何と神社から
彼方に見える高台だという。
そこの家の屋号が極楽院といわれて其れだと確信。
多分、長野氏宗家がその地に居住して守っているらしい。
車で東南に移動して新幹線高架と接するところに其れらしき場所。
直ぐに伝説の「さかさ梅」の看板が目に付いた。確かにここが極楽院跡。
伝説は勿論、落城時に女房たちが集団自決したところでもあるが
さかさ梅の伝説は「業盛の遺児亀寿君老臣に抱かれて潜み居たり。
極楽院主・鎮良長野姓を名乗る。信玄入道、偶々極楽院を訪い
天満宮に詣ぜし時携えし梅の鞭を逆さに植てしが生い立ちて
花さかさに咲きぬ」となる。
信玄の行為は「潜み居るは知っているぞ」という恫喝と同時に
極楽寺側の裏工作と亀寿丸が妾腹の子であったために見逃すとの
サインと解釈されている。勿論説話によるとはと云う事だが。
もし、嫡男なら憎き上杉の子となるので許さなかったであろうとの推察。
何時頃、どんな理由で極楽院が無くなったかを聞こうとして
長野宗家を訪問するが生憎の留守で残念。
敷地内の鳥居掲額は「菅原神社」、社殿には天満宮。
これで一先ず終了として曇天の雲行きを心配しながら帰途につく。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
伝説巡り。先ず前回見逃した業政公菩提寺の長純寺、それと
地図には載ってない伝説の「和田の館跡」と「極楽院跡」を
探すのが目的。
長純寺は鳴沢湖の北方なので車郷小学校脇を通って湖の北側の道を
梅林の方向に進むと直ぐに長純寺の看板。
やがて広大な敷地を有する寺、山の上の梅林まで広がった墓地群。
入り口に奪エバと閻魔様、
遠からず三途の河原でお世話になるので最近特に愛想良くご挨拶。
墓所とは云うが供養搭、丘の中腹に展開する墓地を通過した梅林の
中にそれはあった。数度の火災で移転を重ねて今の場所。
業政公の戒名にも「長純」の文字があったな、と想いながら拝礼。
正面の大きいのが業政の供養搭
右側が業政夫人のものとされる。
今度は和田の館を探しに「和田山地区」に向かう。箕郷の町中に戻って
安中線を南下、右手に西部病院を見てからコンビニ角を右折、中和田橋で
榛名白川を渡った突き当りが「和田山」地区。幸運にも直ぐに看板発見。
遥かの昔、建保元年(看板は建歴3年と書いてあるが建歴は2年まで)
鎌倉ご家人の中核・和田義盛は北條の挑発に乗せられ先に手を出して
しまい敗北。その中で六男・義信またはその子・正信、若しくは八男
・義国の何れかがこの地に逃れて蟄居生活を送り、やがて勢力を得て
赤坂庄に進出しそこを「和田」としたという。
小学校卒業直後に(S-20-3)高崎に疎開するまで鎌倉で生まれ育った爺イは
江ノ電の「和田塚」駅に名を残す和田義盛一統には悲劇の善玉武将として
格別な思い入れがある。
さて、この話が後年になつて井伊直政が箕輪城から移転して高崎と
名付けるまで高崎が和田と云われた由縁。戦国時代は和田城。
この地への逃避行中、和田氏の故郷三浦三社の神の誘導の話とか、
古来ここが和田氏の飛び領地である事を同行の和田氏別当松本兵部が
気付くなど多くの伝説を伴っている。高崎移転は1230年か1243年と
伝わるが、郷土史家の故・前沢辰夫氏は逃れて来たのは義国で高崎移転は
その子・正信が1230年としているがその文中1230年を「寛保二年」
としてあるが「寛喜二年」の誤りとは爺イの発見。
「上野国赤坂庄和田記」には「八男和田八郎義国、葛西西切抜、西上州
群馬郡和田山に退き蟄居す。然る後、同郡赤坂駅へ引き移住居なり」と
あるのでここらが出所かな?
だが、東鑑では義信・義国とも討ち死にになっているので、逃れたのは
義信嫡男で当時8歳と云われた正信が正解とする説も根強いと聞く。
現在、その跡には和田氏末裔本家を名乗る松本氏の豪勢な家がある。
驚いた事にご近所さんは殆ど「松本さん」で皆さん、和田氏末裔と
胸を張る。ある歴史先生は姓は地名から起きるもので姓から
地名は起こらないから全くの誤伝とこき下ろすが、この地にきて
由緒書付き系図を持って末裔という松本家集団の前で云えるかな。
松本は松本兵部から?
そう言えば、室田地区に500軒もある「清水さん」が清水冠者・
木曾義高の子孫を称しているのに似ている。義高は勿論の事、
木曾義仲の遺児、人質になっていた鎌倉からの逃亡に失敗して
埼玉で殺された筈だが、幸いにも室田に逃れて土着し清水家祖と
言う事になっているのだ。
義高伝説に関しての探訪記は手前味噌で申し訳ないが、
このURLをご参考に。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/76b3e1a1b1b3fd53803becb2be4ddf67
さて、かって郷土史家に発見されたという和田氏関連の墓地を
探してマゴマゴしていたら、ご本家松本さんの家人が案内をして
くれた。直ぐ近くの大きな松本家墓地の一隅に其れらしきもの。
但し、はっきりは判らず墓参の時にご先祖様として真っ先にお参りする
墓石を示してくれたが、数が多い。「九代様」と云ったが《鎌倉北条九代記》に
記載があるからかな?何の事やら此方の頭も800年戻ってしまって
やや混乱。
伝説にある三浦三社の内、勧請した熊野神社も鬼門の方角の直ぐ近く。
一通り案内してもらってから「極楽院」の場所を聞いたら何と神社から
彼方に見える高台だという。
そこの家の屋号が極楽院といわれて其れだと確信。
多分、長野氏宗家がその地に居住して守っているらしい。
車で東南に移動して新幹線高架と接するところに其れらしき場所。
直ぐに伝説の「さかさ梅」の看板が目に付いた。確かにここが極楽院跡。
伝説は勿論、落城時に女房たちが集団自決したところでもあるが
さかさ梅の伝説は「業盛の遺児亀寿君老臣に抱かれて潜み居たり。
極楽院主・鎮良長野姓を名乗る。信玄入道、偶々極楽院を訪い
天満宮に詣ぜし時携えし梅の鞭を逆さに植てしが生い立ちて
花さかさに咲きぬ」となる。
信玄の行為は「潜み居るは知っているぞ」という恫喝と同時に
極楽寺側の裏工作と亀寿丸が妾腹の子であったために見逃すとの
サインと解釈されている。勿論説話によるとはと云う事だが。
もし、嫡男なら憎き上杉の子となるので許さなかったであろうとの推察。
何時頃、どんな理由で極楽院が無くなったかを聞こうとして
長野宗家を訪問するが生憎の留守で残念。
敷地内の鳥居掲額は「菅原神社」、社殿には天満宮。
これで一先ず終了として曇天の雲行きを心配しながら帰途につく。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます