クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

歴史探訪・内村鑑三と高崎と H-18-6-27

2006-06-27 11:28:06 | 伝説・史跡探訪
高崎の郷土文化を高めた偉人と言えば「村上鬼城」と「内村鑑三」の
二人と言うのが定説である。高崎図書館の郷土史コーナーに行ってみると
内村鑑三関連の図書で埋まっている。しかし、現実にはこの内村鑑三と
高崎を直結的に関連付ける人がこの高崎にはどのくらい居るだろうか?
鑑三本人が江戸・小石川の高崎藩邸で生まれている事で分かるように
代々城主・大河内氏に仕えた家柄であり、東京外語から札幌農学校に
入学後にクリスチャンになり、新島壌の紹介で米国留学、教員生活の後、
著述に専念の傍ら足尾銅山事件では鉱毒は人災であると訴えたり、
日露戦争時には不戦論を展開する。
(1) 頼政神社の記念碑
鑑三の記念碑が高崎公園隣の頼政神社内にあるので尋ねた。この「頼政」
とは勿論、平家全盛の時、衰退した源氏勢力の中で唯一政治の中で
頑張ったが、1180年頼朝の挙兵に先立って以仁王をたてて挙兵し、
宇治平等院で自決した源頼政のこと。
その頼政を遠祖としたのが大河内氏であり、輝貞が越後左遷から高崎藩主に
復帰した後この頼政神社を建立した。その大河内氏に代々仕えた内村家
という関係で鑑三生誕百年の昭和36年に「内村鑑三建碑会」が建てたと
言う縁である。輝貞は例の「右京の無駄掘り」の右京殿でその遺構を
スルス岩下で見つけて以来、爺イはこの御仁が気に入っている。碑には鑑三の
作による上州人気質をうたった漢詩が刻まれていた。


(2) 竜広寺の村上鬼城の墓
頼政神社の隣にある竜広寺には村上鬼城の墓所があるので寄って見た。
墓地内には観光地みたいに鬼城の墓の案内図があり、広い敷地内でも
容易に捜し出せる。

この墓地内には日露戦争時のロシア兵病没者の墓地もある。当時、五百人
ぐらいのロシア兵捕虜が高崎に拘束されていたらしい。

(3) 光明寺の内村家歴代の墓
直ぐ傍の光明寺には鑑三が建立した内村家の墓があるので見てきた。彼自身は
クリスチャンであるから青山墓地。

(4) 内村鑑三住居跡
再び高崎神社の駐車場に車を入れ、柳川町にある鑑三住居跡を探しに
行った。それは柳川町中部の道路から少し入った民家の脇に記念柱が
建てられている。昭和三十六年とあるから頼政神社の碑と同じに生誕
百年記念のものと思われる。

猛烈に上がって来た気温の中、今日の探訪は終了。

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