榛名の南面の雪が貼り付いたように一向に消えない。いよいよ厳冬の到来か。
牛伏山岳会さんのフロント画像で見たが牛伏山の様な低山も雪化粧している。
暫く山は休みになってしまったので運動がてら2k離れた市立図書館まで歩く。
書庫の隅の田島文庫のコーナーで磯部在住の作家の「小説・大野九郎兵衛」を
見つけた。1702年の赤穂義士事件以来、300年以上の間も卑怯者として扱われた
九郎兵衛が実は密命によって吉良家の上野国の所領・磯部人見村の監視のため
潜伏していたと言うもの。この話はかなり流布されている伝承で、爺イも
かって伝説を追いかけてブログに載せたことがある。
此処までは通俗だが、「元助遺跡」で有名なその元助が協力して一緒に行動し
九郎兵衛を守って大活躍していたという展開なのが新しい見方。
巷説では元助が解雇となったのは決行前夜で其れまでは
片岡の下僕として主人に付いていたので設定にはやや無理があるが、その巷説とて
どっち道、忠臣蔵の逸話で全て芝居の上の話なので実際に江戸と磯部の連絡員位は
やったかもしれないーーーと思えば面白く読める。
冬季の暇つぶしに丁度良い題材なので伝説の地を一巡する事にした。先ずは吉良氏の
群馬の飛び領地を知らなくてはならない。吉良氏は三河の本領3000石の他に上野国碓氷郡
人見村(安中市松井田町)に約260石と東隣の中野谷に40石、メインは緑埜郡白石村
(藤岡市)に約700石でここに陣屋を置いている。
人見村とは磯部の西南でその南は妙義町に接している場所。
手始めに藤岡に向かった。城南大橋から寺尾を直進してR-30を南進、上落合でR-173に
切り替わって白石でR-254にぶつかるので右(西)折、最初の信号を右折して
飯玉神社前を左折すると右側にある。N-36-14-58 E-139-01-54
これが陣屋跡の広々とした全景、だがそれだけ。
吉良上野介は寛永18年(1641)の生まれだから勘定は合わない。一説には
陣屋は寛永5年(1628)の設置と云うから1650年からと言い切るより
辻褄は合うのだがな。
道の反対側にもう一つの看板。陣屋井戸跡。
さて、藤岡を離れて今度は一気に西進して安中を目指し交通量の少ないルートで
ぶっ飛ばし。
R-406から新幹線の安中駅に北側から近づく。安榛トンネルなどを三つ潜ると
小さな四つ角。
右折して元助遺跡に向かう。ここにはH-16年に訪問している。
細道を登って駐車場、その直ぐ脇に道標が有る。
道は偽木コンクリート枠で整備されていて歩き易い。
途中で遺跡は東100mの表示板の上に巨大な岩窟。
中には数体の石像などがあるが遺跡との関連は不明。
更に進むと義士石像の標柱と説明看板。
前面に仏像が一体。
その後ろの岩窟の中に49体の石像が並ぶがネットが掛かっている上にカメラを構える
角度が取れないので良い写真が撮れなかった。
遠くから見ると同じ様に見えるが近づくと一体毎に異なる石像。しかし、何となく
時代を感じさせない。後で聞いたら破損の修復と同時に綺麗に苔等を洗い落として
清掃したんだそうだ。この類は自然にして苔むして居た方が良いと思うんだがな。
近くに「元助の詩」なるものが掲げてあったがH-12と新しいので感慨は沸かない。
さて、ここまで来たら裏山の御殿山に登る事にした。この裏山は安中地区低山縦走の
一環として通過する人も居るらしい。去年の冬も重鎮さんが「すかいさん」と二人で
通過している記録を見た記憶が有る。
爺イは2005年頃に一度来ている。古標識探訪と題して1993年頃、重鎮さんがこの周辺に
つけて廻った標識のその後を見る試みだった。
この山は「岩戸山」とも言われるがここの住所が安中市上秋間岩戸3197だから
かもしれない。
遺跡の右手につけられた踏み跡を辿って東に廻って尾根に立つ。目の前に石仏。
尾根にはやや痩せた岩場も見える。
今日は軽装でスニーカーを履いているので尾根は回避して北に廻る細い迂回路へ。
ぐるっと廻って腐ったような木橋をそっと渡ると目の前が下地の柔らかい斜面。
ほんの僅かの登りで北との鞍部で稜線に着く。目の前には丘の様な頂上。
台地状の頂上は枯れ枝の雑木に囲まれて西北の石尊山以外は良く見えない。
標識は多数。これは昔からある達筆のもの。かってはこの脇にKUMO標識が針金で
附けられていたが今は朽ち果てたらしくその痕跡も無い。
(2005-1-24の写真で伝説になりつつあるKUMO標識の姿を見つけた。右下がりの
茶色のもの。右端にKUMOのサインが確認できる)
「安中の山に登ろう会」のもの。
榛名・赤城で頻繁に見る亀マークのものだか作者は知らない。だが、この白ペイントが
直ぐ擦れるので白マーカーを持って補修しまくった時期もある。
写真はピンポケだかこのスタイルは多分FUJIOKA TK さんのもの。
そしてもう県内余すところ無く御馴染みになった手間の掛かった「すかいさん」の作品。
但し、新規制作分なのか? 従来品に比べると色がやや薄い感じがする。
下界の小春日和と違ってここは寒風の通り道、早々に退散して近くの安中榛名駅へ。
サラリーマン時代を思い出して駅蕎麦の立ち食い。
さて、「久保の観音堂」探しを開始。安中市史跡リストには「東上秋間上久保甲2041」
とあるので駅の南方で巨大な団地の近く。駅からの道を真っ直ぐ下ると複雑な団地の
中に入り込んで中々脱出が出来ずに大弱り。
漸く目印の人工池の前に来て路傍駐車。開発から外れた寂れた集落への急坂を下る。
そして遥か彼方の墓地群の一角に見慣れた教育委員会の白い角柱発見。
供養塔の看板。N-36-21-23 E-138-50-50
その前に巨大な石造りの「四十九院塔」。文字はかすれて見えないが全員の戒名が
刻字されているそうだ。勿論、元助の作と伝わる。
奥に探していた「久保の観音堂」。
堂の中の正面。
左側。
そして右側、御近所さんに聞いたら戸棚の中に未だ多くの木像があるとか。
例祭は3/25だが参加者が減り続けていて困っていると。もし、暇があったら
関心があるようだから参加してくれと頼まれてしまった。
観音堂を後にしてR-215を東進して元助生誕地探しにかかる。県道に面している
と聞いていたので「舘」地区を探す。
消防署の火の見櫓が見えたので近くの「秋間農林公園」に駐車。
そこから100m東に岩屋を発見。ここは昭和39年に秋間史蹟保存会によって作られたもので
未だ、市の指定史蹟には入っていない。N-36-20-39 E-138-52-58
予定終了で帰ろうとしたら道路の反対側に「舘の百体 馬頭観世音」の道標が
見えたので丘に登ってみた。
成る程、山の懐に抱かれたようなスペースにずらっと並んで壮観。
隣の八幡様にお参りして本日は終了して帰宅。僅かに4000歩と余り歩かなかったので
大した運動にはならないが好奇心は大いに満たされた一日だつた。
尚、元助のことは片岡の下僕と言われるが、この地では「忠僕」と評している。
ご来訪のついでに下のバナーをポチッと。
牛伏山岳会さんのフロント画像で見たが牛伏山の様な低山も雪化粧している。
暫く山は休みになってしまったので運動がてら2k離れた市立図書館まで歩く。
書庫の隅の田島文庫のコーナーで磯部在住の作家の「小説・大野九郎兵衛」を
見つけた。1702年の赤穂義士事件以来、300年以上の間も卑怯者として扱われた
九郎兵衛が実は密命によって吉良家の上野国の所領・磯部人見村の監視のため
潜伏していたと言うもの。この話はかなり流布されている伝承で、爺イも
かって伝説を追いかけてブログに載せたことがある。
此処までは通俗だが、「元助遺跡」で有名なその元助が協力して一緒に行動し
九郎兵衛を守って大活躍していたという展開なのが新しい見方。
巷説では元助が解雇となったのは決行前夜で其れまでは
片岡の下僕として主人に付いていたので設定にはやや無理があるが、その巷説とて
どっち道、忠臣蔵の逸話で全て芝居の上の話なので実際に江戸と磯部の連絡員位は
やったかもしれないーーーと思えば面白く読める。
冬季の暇つぶしに丁度良い題材なので伝説の地を一巡する事にした。先ずは吉良氏の
群馬の飛び領地を知らなくてはならない。吉良氏は三河の本領3000石の他に上野国碓氷郡
人見村(安中市松井田町)に約260石と東隣の中野谷に40石、メインは緑埜郡白石村
(藤岡市)に約700石でここに陣屋を置いている。
人見村とは磯部の西南でその南は妙義町に接している場所。
手始めに藤岡に向かった。城南大橋から寺尾を直進してR-30を南進、上落合でR-173に
切り替わって白石でR-254にぶつかるので右(西)折、最初の信号を右折して
飯玉神社前を左折すると右側にある。N-36-14-58 E-139-01-54
これが陣屋跡の広々とした全景、だがそれだけ。
吉良上野介は寛永18年(1641)の生まれだから勘定は合わない。一説には
陣屋は寛永5年(1628)の設置と云うから1650年からと言い切るより
辻褄は合うのだがな。
道の反対側にもう一つの看板。陣屋井戸跡。
さて、藤岡を離れて今度は一気に西進して安中を目指し交通量の少ないルートで
ぶっ飛ばし。
R-406から新幹線の安中駅に北側から近づく。安榛トンネルなどを三つ潜ると
小さな四つ角。
右折して元助遺跡に向かう。ここにはH-16年に訪問している。
細道を登って駐車場、その直ぐ脇に道標が有る。
道は偽木コンクリート枠で整備されていて歩き易い。
途中で遺跡は東100mの表示板の上に巨大な岩窟。
中には数体の石像などがあるが遺跡との関連は不明。
更に進むと義士石像の標柱と説明看板。
前面に仏像が一体。
その後ろの岩窟の中に49体の石像が並ぶがネットが掛かっている上にカメラを構える
角度が取れないので良い写真が撮れなかった。
遠くから見ると同じ様に見えるが近づくと一体毎に異なる石像。しかし、何となく
時代を感じさせない。後で聞いたら破損の修復と同時に綺麗に苔等を洗い落として
清掃したんだそうだ。この類は自然にして苔むして居た方が良いと思うんだがな。
近くに「元助の詩」なるものが掲げてあったがH-12と新しいので感慨は沸かない。
さて、ここまで来たら裏山の御殿山に登る事にした。この裏山は安中地区低山縦走の
一環として通過する人も居るらしい。去年の冬も重鎮さんが「すかいさん」と二人で
通過している記録を見た記憶が有る。
爺イは2005年頃に一度来ている。古標識探訪と題して1993年頃、重鎮さんがこの周辺に
つけて廻った標識のその後を見る試みだった。
この山は「岩戸山」とも言われるがここの住所が安中市上秋間岩戸3197だから
かもしれない。
遺跡の右手につけられた踏み跡を辿って東に廻って尾根に立つ。目の前に石仏。
尾根にはやや痩せた岩場も見える。
今日は軽装でスニーカーを履いているので尾根は回避して北に廻る細い迂回路へ。
ぐるっと廻って腐ったような木橋をそっと渡ると目の前が下地の柔らかい斜面。
ほんの僅かの登りで北との鞍部で稜線に着く。目の前には丘の様な頂上。
台地状の頂上は枯れ枝の雑木に囲まれて西北の石尊山以外は良く見えない。
標識は多数。これは昔からある達筆のもの。かってはこの脇にKUMO標識が針金で
附けられていたが今は朽ち果てたらしくその痕跡も無い。
(2005-1-24の写真で伝説になりつつあるKUMO標識の姿を見つけた。右下がりの
茶色のもの。右端にKUMOのサインが確認できる)
「安中の山に登ろう会」のもの。
榛名・赤城で頻繁に見る亀マークのものだか作者は知らない。だが、この白ペイントが
直ぐ擦れるので白マーカーを持って補修しまくった時期もある。
写真はピンポケだかこのスタイルは多分FUJIOKA TK さんのもの。
そしてもう県内余すところ無く御馴染みになった手間の掛かった「すかいさん」の作品。
但し、新規制作分なのか? 従来品に比べると色がやや薄い感じがする。
下界の小春日和と違ってここは寒風の通り道、早々に退散して近くの安中榛名駅へ。
サラリーマン時代を思い出して駅蕎麦の立ち食い。
さて、「久保の観音堂」探しを開始。安中市史跡リストには「東上秋間上久保甲2041」
とあるので駅の南方で巨大な団地の近く。駅からの道を真っ直ぐ下ると複雑な団地の
中に入り込んで中々脱出が出来ずに大弱り。
漸く目印の人工池の前に来て路傍駐車。開発から外れた寂れた集落への急坂を下る。
そして遥か彼方の墓地群の一角に見慣れた教育委員会の白い角柱発見。
供養塔の看板。N-36-21-23 E-138-50-50
その前に巨大な石造りの「四十九院塔」。文字はかすれて見えないが全員の戒名が
刻字されているそうだ。勿論、元助の作と伝わる。
奥に探していた「久保の観音堂」。
堂の中の正面。
左側。
そして右側、御近所さんに聞いたら戸棚の中に未だ多くの木像があるとか。
例祭は3/25だが参加者が減り続けていて困っていると。もし、暇があったら
関心があるようだから参加してくれと頼まれてしまった。
観音堂を後にしてR-215を東進して元助生誕地探しにかかる。県道に面している
と聞いていたので「舘」地区を探す。
消防署の火の見櫓が見えたので近くの「秋間農林公園」に駐車。
そこから100m東に岩屋を発見。ここは昭和39年に秋間史蹟保存会によって作られたもので
未だ、市の指定史蹟には入っていない。N-36-20-39 E-138-52-58
予定終了で帰ろうとしたら道路の反対側に「舘の百体 馬頭観世音」の道標が
見えたので丘に登ってみた。
成る程、山の懐に抱かれたようなスペースにずらっと並んで壮観。
隣の八幡様にお参りして本日は終了して帰宅。僅かに4000歩と余り歩かなかったので
大した運動にはならないが好奇心は大いに満たされた一日だつた。
尚、元助のことは片岡の下僕と言われるが、この地では「忠僕」と評している。
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追加した。