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納戸の奥に眠っている箱を久しぶりに出してみると…
買い集めていた45年前の週刊ベースボールを読み返しています

#201 頭角を現し始めた新戦力

2012年01月11日 | 1981 年 



高橋正己 (仙台鉄道管理局→日ハム)…プロ2年目ながら既に26歳。昨シーズンまでの「阪急キラー」だった高橋直樹の穴を充分に埋める活躍だ。5月16日の阪急戦の完投勝利で早くも3勝目。「別に去年と大して変わりないっスよ。宮田コーチの助言で腕を少し上げた事くらいかな。それでシンカーの落ちが良くなった気もするけど」と好調の原因は本人にも今ひとつピンときてない。「去年は右も左も分からず落ち着きがなかったかな。何かにつけて同期の木田と比較されてイライラしていたのは事実。でも俺がイラつくのはお門違いだよな、木田がイラつくなら分かるけど」 「向こうは最多勝・新人王・MVP・・・こっちは2軍で7勝7敗じゃあ比べる事すら失礼ってモンだ」 仙台生まれの仙台育ちで東北人特有の感情を表に出さない気質なのか余り自己主張は強くないがマウンド上で感情を露にする木田を「陽の闘魂」とするなら高橋は「忍の魂」であり、木田に対する内なるライバル心は赤々と燃えている。木田に去年のような勢いが見られない今、高橋が追いつき・追い越そうとしている。 
【 通算 50試合 7勝 11敗 防 4.54 】

小嶋正宣 (東芝→阪急)…木田をライバル視している選手がもう一人いる。木田と同じ昭和29年生まれで、木田より1年遅れで今年阪急にドラフト外でプロ入りした投手。5月20日には初勝利をあげたが、その時の感想は「長かった…」 それは4度目の先発だったからではなく彼の野球人生がそう言わせたのだ。埼玉県・鴻巣高の卒業時にはプロからの誘いはなく東洋大へ進学するも下級生の時は松沼・兄、上級生になった時には松沼・弟がいた為に主戦投手にはなれず大学通算2勝に終わった。当然、プロから注目される事なく三協精機へ入社した。心機一転、社会人で腕を磨き念願のプロ入りを目指したが三協には後に阪神へドラフト1位指名でプロ入りする同じ歳の伊藤文隆がいた為に小嶋はまたもや「控えの存在」から脱却出来なかった。やがて三協精機野球部が解散する憂き目に会い東芝へ移るが、そこにも「社会人野球界のエース」と呼ばれた黒紙義弘がいた為に目立たぬ投手に変わりはなかった。東芝は木田が所属していた日本鋼管と同地区であったので都市対抗野球の予選で常に顔を合わせていた。 「木田とは格が違い過ぎますよ」と本人は一言で片付けるが、言葉とは裏腹に踏まれてもなお這い上がって来る雑草の逞しさが垣間見える。木田と同じ背番号16へ上田監督の「先発グループの軸として考えている」との御墨付きが、もう日陰の花ではない事を表している。
【 通算 75試合 8勝9敗 防 4.23 】

高浦美佐緒 (三菱自動車川崎→大洋)…「高浦美佐緒」で最初に注目されたのは法政大学時代の「江川の教育係」の経歴だった。ドラフト外、27歳でのプロ入りは大洋の話題作りとの批判通り1年目の成績は4試合・3打数・0安打と散々だった。しかし、正捕手・福島の故障で高浦にチャンスが巡って来た。「緊張で喜びを感じる暇もありません」という高浦だが、弱投と言われる大洋投手陣を巧みにリードしている。「2年目の捕手とは思えないね」と捕手出身の土井監督も合格点を与えている。今は自軍の投手を知るのに精一杯で対戦球団の打者にまでは目は届かない。試合後はチームメイトが球場を後にしても、スコアラーと残りデータ分析に時間を割いている。「江川の記事」の刺身のツマでしか名前が出る事がなかった高浦が、一人のプロ野球選手として脚光を浴びつつある。
【 通算 179試合 54安打 4本塁打 打率.192 】

達川光男 (東洋大→広島)…昭和48年、夏の甲子園大会に広島商の捕手として出場して全国優勝を成し遂げ、東洋大に進学後も1年生からマスクを被ったエリートである。広島の実家はタクシー会社を営み生活も恵まれたお坊ちゃんだ。プロ入り当時は水沼が正捕手の座をガッチリ築いていた為に新人捕手の出番は少なかった。そうした状況を打破するべく猛練習をするわけでもなく野球を甘く見ていたフシがあった。しかも大差がついた試合で出場機会を与えられると盗塁を2度刺したり決勝の本塁打を放つなど結果を出した為に本人の慢心は治らなかった。2年後にPL学園の山中潔、3年後に広陵高の原伸次の2人の捕手が入団した事でようやく達川の尻にも火が点いた。オフの間の休日は正月三が日のみ。キャンプ中の夜間練習も皆勤、練習後も一人素振りを繰り返した。しかし生来のノンビリ屋がやがて蘇えって来て、オープン戦の頃には元の達川に戻ってしまった。事件が起きたのはオープン戦も中盤に差し掛かった頃だった。試合前のランニング中の達川の左頬が青く腫れていた。同じミスを繰り返す達川に業を煮やした古葉監督に「愛のムチ」を喰らったのだ。そしてこの日から明らかに達川から甘えが消え試合中は勿論、試合前や後も投手陣とのコミュニケーションも怠りなくするようになり信頼も得つつある。開幕してから水沼の調子が上がらず、首脳陣は達川の出番を増やしつつあり世代交代も視野に戦っている。 
【 通算 1334試合 895安打 51本塁打 打率.246 】

一番チャランポランにプロ野球生活を送っていた達川が、一番息が長かったのは皮肉です。所詮は結果を残した奴だけが生き残れる世界、いかに努力したのかは重要ではないと言う事ですか・・・

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