巨人vs阪神ほど勝負にかけた男たちの血の騒ぐカードはないだろう。それが時には選手から監督に至るまで我を忘れさせる。事の善し悪しは別として、いわゆるグラウンドのトラブルは巨神戦の舞台のような熱戦であればあるほど起きてくる。
いまでもストライクと信じている
昭和38年8月11日、後楽園球場のマウンドで村山投手が自信を持って投げ込んだ1球が「ボール」と判定された時、村山投手は猛然と抗議するも聞き入れられず退場まで宣せられた。男泣きに泣いて訴えた村山投手の姿は多くのファンにも大きな感動を与えた。抗議の善悪とは別に勝負に賭けた男の情熱、そして己の鍛えぬいた投球への自信が人々の胸を打ったのだろう。その場面を村山氏本人に思い起こしてもらった。対巨人3連戦を1勝1敗で迎えた3戦目、前日に続く連投となる村山は7回裏、得点は1対1の同点で走者二・三塁のピンチに登板した。代打の池沢に対しボールカウント2―2からの5球目は渾身のストレートが内角低目に決まった。筈だった…
だが次の瞬間、国友球審は「ボール」と宣告した。村山は顔面蒼白になり脱兎のごとく国友球審めがけて走り出した。ここからは村山氏本人の述懐である…国友球審は抗議した私に退場を命じたのだ。私は国友球審に指一本触れていないばかりか退場を示した時に振り上げた国友球審の手が私の左頬に当たり赤く腫れてしまったのである。戸梶、山本哲、室山らに抱きすくめられて私は身動き出来ないまま退場させられた。本当にあっという間の出来事だった。釈明を聞く暇もなくグラウンドから追い出された私は無念の情に耐え切れず泣いた。球場で泣いたのは後にも先にもこの時と優勝した時の二度だけだ。私にとって決して忘れることの出来ない悔しい一瞬だった。
あの時の投球がボールだとは今でも思っていない。退場を命じられた理由も釈然としない。だが過ぎ去った十数年も前のことを今更ほじくり返すつもりはない。国友球審とはその後に話し合い握手もしている。ただ私にとってはまさに情熱込めた青春時代の1ページとして思い出すのである。考えてみれば現在のプロ野球で当時ほどのエキサイトする選手がいるのだろうか?揉め事を奨励するつもりはないが何か寂しさを感じなくもない。実はその試合の前日にも私は投げていた。8回裏まで巨人打線をパーフェクトに抑えながら9回裏に先頭の池沢に右前打を打たれて大記録を逃していた。またしても池沢相手に苦汁を飲まされる思いがしたのだ。
なので判断に苦しむジャッジメントに私の全身の血が一気に頭に昇って国友球審とのトラブルを引き起こしたのだと思う。今になって考えるとプロ野球ほど生きた、そして筋書きのないドラマはないようでそれだけグラウンドに生きる勝負師の舞台はギラギラと輝き、うごめいているものだと思う。それにひきかえ現在のプロ野球は皆があまりにも冷静で判断が良過ぎ、わきまえ過ぎではないだろうか。もっとエキサイトし一部の応援団に引きずられて声援するまでもなく、グラウンドとスタンドが一つの筋書きのないドラマを構成する主役であったり脇役として生きる、そんな場面や試合が少な過ぎはしないかと思う。
勝負にひたむきになれた男冥利
退場処分となった私は後楽園球場を後にした。水道橋から小石川にあった清水旅館まで一人でとぼとぼ歩いたのを憶えている。なんで退場させられたのか、悔しさで私は歩きながら涙した。それから数日間は宿敵巨人軍に積もる怨念で興奮は冷めなかった。それほどまでに勝負にひたむきになれる事こそ男冥利に尽きるというものだ。我が阪神と巨人軍の勝負こそ何故か男を奮い立たせる雰囲気を持つ。当時の監督は藤本定義さん。藤本さんは巨人でも監督を務め沢村投手やスタルヒン投手を育てた人でもある。昭和38年当時、藤本さんは巨人戦に挑む阪神の選手らのファイトを掻き立てるのが実に上手かった。
あの試合も私は藤本さんに上手に乗せられていた感じはする。さぁ巨人戦だ、やってやろうじゃないかみたいな気持ちになって若い血を燃やし、たぎらせてマウンドへ向かった。ボールかストライクかの判定は覆らないものだと頭では分かっている。分かってはいるが巨人戦は理性を失わせる魔物でもあるのだ。理性を失っていたのは私たち選手だけではなかった。冷静さを求められる審判員の中にもギラギラとした勝負師のような人間臭さが垣間見えた。どこか規則と縄張りを尊重し過ぎた現在のオーダーメイド野球とはかけ離れたドラマを生み出す舞台が当時のプロ野球には生き続けていたのではないか。
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