北海道美術ネット別館

アート、写真、書など展覧会の情報や紹介、批評、日記etc。毎日更新しています

今田敬一編著『北海道美術史 地域文化の積み上げ』は貴重な資料だが、すでに乗り越えられるべき書物である

2021年10月05日 08時46分15秒 | つれづれ読書録
 『北海道美術史』は1970年に道立美術館から出版されました。筆者は調べ物などで拾い読みをしたことはあるものの、恥ずかしながらこれまで通読したことがありませんでした。
 古書店の店頭で見ると1万~1万5千円前後の値がつけられており、手が出なかったのです。このたび、入手できてようやくまるごと読むことができました。

 一読して、驚きました。
 この本の美術史のとらえ方については以前も批判したことがありますが(末尾のリンク先参照)、それ以前に、「美術史」といえるかどうかすら怪しく感じられたからです。
 はっきり言います。この本は、エピソードや文献の引用が豊富で資料としては貴重な意義を持ちますが、美術史とは呼べない代物です。


 1. 扱う時代と分野の問題

 なぜ美術史といえないのか、その理由は後ほど述べるとして、この本がどういう書物なのかをかんたんに説明しておきます。
 著者の今田敬一(1896~1981)は道展初期からの会員で、プロの絵描きではありませんが、北大黒百合会の時代から絵筆を執っていました。北大では林学の教授でした。
 古くから道内の美術界を知り、資料を集め、「道展四十年史」などを執筆していたこともあって白羽の矢が立ったのでしょう。道立美術館から委嘱され、同美術館としては『三岸好太郎』に続く2冊目の出版物となりました。なお、道立近代美術館は1977年の開館で、それより前の1967~77年は、北1西5の旧道立文書館が美術館として用いられていました(現在の北菓楼です)。

 今田の経歴のためもあるのでしょうが、この本は、最初の章「黎明期の美術活動」を、有島武郎が創設にかかわった黒百合会から説き起こし、次の章「北海道の美術の夜明け」、1925年(大正14年)の道展(北海道美術協会)の創立を中心に書いています。
 当時の様子を肌で知る人だけに、その叙述は生き生きとしています。
 一方で、そこにつながらない潮流については記述がほとんどありません。「はじめに」に、次のような一節があります(送りがなの不統一は原文のまま。「蠣崎」は原文「蛎崎」を直しました)。

たとえば天和二年(一六八二)松前に生まれたと考えられ、松前の画人として、元文・寛保のころ松前屛風・江差屛風をのこし、また好んでアイヌの風俗を題材として龍園斉小玉貞良(歿年不明)もいれば、また明和元年、藩主松前資広の子として松前城に生れた広年(蠣崎波響)は、松前応挙と言われていた(文政九歿一八二六)。天保九年エトロフ島に生まれ、その後しばらく函館に住んだ横山松三郎は、明治はじめの洋画の先達であった。しかしこれらの人たちが、北海道の今の美術と直接つながりがあるとは思われない。

「思われない」と言われましてもですね…。

 そういう見方で書かれているので、この書物は、明治末から大正期にかけての黒百合会と林竹治郎の活動、そして大正期に、道内各地(小樽、旭川、函館、帯広など)で生まれた洋画団体が道展に糾合していく―という流れに整理されているのです。
 この見方の根底にあるのは、抜きがたい「洋画中心主義」だといえます。
 つまり「アート」イコール絵画、それも「洋画」という見方です。
 いまでも、年長世代に「美術が好きです」というと「へえー、絵を見るのが好きなんだ」という答えが返ってくることがよくあります。絵画以外にもさまざまな分野(手段)があることは言うまでもありませんが、この書物は、洋画についての記述が圧倒的に多く、日本画と彫刻、版画が加わる程度で、工芸、写真、書道、映像、デザインなどにはひとことも言及がありません

 それにしても今田氏は、アイヌを描いた絵については検討の俎上に載せても、アイヌ民族が作ったアートがあることについては考えもしないのかと思うと、はなはだやるせない気持ちになります。
 函館の美術活動に関して言えば、赤光社以前の動き(平沢屛山や藤原永信、平福穂庵ら)にも若干触れていますが、とても淡白な記述で終わっているのは「写真が美術の一分野である」という発想が全く欠落しているからなのは、間違いないでしょう。幕末明治期の函館は、日本の写真史でも特権的な都市といってさしつかえないでしょうが、何も述べられていないのは残念です。

 今田氏がそういう史観の持ち主である以上、叙述が札幌の洋画に偏るのはやむを得ないことですが、いちおう「小樽の美術活動」「函館その他の美術活動」といった章や「岩内派の形成」という節もあって、札幌以外にも目配りはされています。
 ただし、北見や釧路、室蘭といった地方都市、とくに戦後は文化活動が盛んだった空知の産炭地については、ほとんど無視されています。


 2. これは美術史なのか

 ここまで書いてきたことは「1970年発行」という時代の制約と思えば、やむを得ないかもしれません。
 モノクロの図版は多数掲載されていますが、カラー図版が1枚もないのも、昔の出版物ゆえでしょう。

 しかし、あらためてびっくりさせられるのは「美術史」を名乗っているにもかかわらず、作品自体のことについての記述があまりにも乏しいことです。
 主だった画家については評伝のページがさかれていますが、何年の何という展覧会に「●●」という題の作品を出品した、特選になったということについては事細かにつづられ、資料としての価値の大きいことは否定できません。ですが、たとえば4ページにわたって画業の歩みが書かれている山内弥一郎については、絵の中身についてははじめのほうで
「大下藤次郎や三宅克己などとは別な、浅井忠系のしんみりした作品をみせた」
とあるだけで、あとは全く説明がなく、要するにどんな絵を描いていたのかがわからないのです。
「いつも羽織袴に白足袋をつけ、ママ面目すぎるほどの人柄で、ひっそりと厳しく自分を深めていた。したがって画格のたかい絵であった」
と言われても、作品の理解にはほとんど役に立ちません。エピソードとしては面白いのかもしれませんが。
 これは三岸好太郎などについても同じです。
 写実的なのか、フォーブ的なのか、幻想的なのか…。色彩や筆勢はどうか、構図はどんななのか。そういった解説が全編を通してほんとうに少なく、この本が半世紀にわたって「美術史」として扱われてきたこと自体が、筆者には驚きといわざるを得ません。

 今田氏に先立つ評論家で、この本にも「新風吹きまくった なかがわ・つかさ」という節で取り上げられているなかがわ・つかさにしても、それぞれの画家について、画風を手短に書いています。この本の四半世紀後に上梓された吉田豪介氏の『北海道の美術史』が、各作家や展覧会の作風・傾向について述べていることは言うまでもありません(写真や書に関してはほぼノータッチですが)。
 それを思えば、今田氏の記述は、不自然かつ不足と断じざるを得ないでしょう。

 戦前戦後に開かれた各種展覧会についても、何月何日から何日までか、会場は丸井今井か農業館かといったことは非常に細かく書いてありますが、どんな作品が集まったのかに関してはほとんど書かれていません。

 もうわかっていただけると思います。
 何でもいいのですが、例を挙げます。印象派展が開幕したのが、5月10日なのか15日なのかはそれほど重要ではありません。それより、モネやピサロがどんな絵画を出品していたのか、それは従来の絵画とどう異なるのかといったことが、美術史の記述の中心になるのが普通でしょう。そこを書いていない美術史や印象派の本など、あり得ないはずなのです。
 

 というわけで、結論を繰り返します。
 資料としてはそこそこ役に立つ貴重な本ですが、そもそもこれは美術団体や展覧会の記録の集積であったとしても、美術史と呼べないことは明らかです。

「そこそこ」と書いたのは、実はこの本は、誤植がかなりあちこちに散見されるのです。「岩橋永遠」とか「牛島圭三郎」とか、「青年屑」など、枚挙にいとまがありません(もちろん「岩橋英遠」「手島圭三郎」「青年層」が正解)。誤字脱字のことをよりによって梁井に言われたくないでしょうが、それほど多いということで、この本をどこまで信用していいのかという気になってくるのです。
 筆者は直接は知りませんが、おそらく各種文献から判断すると今田さんは人柄の良い温厚な紳士であったことが推察されます。ただ、そのことと、残された本の評価は、別の話なのです。


 もう一つ、私たちが乗り越えなくてはならないこの書物の姿勢があるのですが、すでに相当な長文になっているので、項を改めます。


過去の関連記事へのリンク
今田敬一の眼 (4月11日まで)(2010)

(この項続く) 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。