まほろば自然博物館

つれづれに、瀬戸のまほろばから自然の様子や民俗・歴史や見聞きしたおはなしをしたいと思います。

梅雨明けて それでも煎餅は 柔らかい

2011年07月08日 | 今日はすっかりとアートの世界

 昨夜は久々に話し込んだせいもあって・・・11時過ぎに寝たように思う・・・。だのに・・・早朝からというか夜中じゅう・・・霧笛が鳴りっぱなしだった・・・。「ぼーーーーー」「ボーーーー」という音が間断なく・・・鳴っている。その霧笛の音で起こされた・・・。

 

 仕方が無く起きたのが6時前・・・。あたりは・・・真っ白・・・。ラジオでは瀬戸内海に濃霧注意報が出ているということを繰り返している。海上の視界は2Km以下とか、500m以下・・・だとか言うている・・・。

 

 確かに・・・島でも・・・500m先は霧の中にかすんでいる。だから・・・海上では船舶同士が衝突防止のために霧笛を吹き鳴らしているのだ・・。まさか、こんな日に漁船や小型船は走ってはいないだろうが、そういうものは大型船にはわからない。だから・・・霧笛で小型船は避けるようにと汽笛を鳴らしている・・・。

 

 霧は・・・島のどこにでも流れている・・・。だから気温が上がってくると蒸し暑さがあふれてくる・・・。

 

 だから・・・島を結ぶフェリーボートも動けないのか時間になってもやってこない・・。島の乗り合い所には島民たちがあつまって大騒ぎしている・・。でも・・自然には勝てないのだからあきらめるしかない。

 

 その濃霧も・・・お昼前には消えた・・・。でも、船の時間は・・・1時間遅れくらいで動いているのだとか・・・。

 お昼前に、高松気象台から・・「四国地方が梅雨明けしたとみられる」という発表をしたようだ。梅雨前線が日本海側に抜けたようだった・・・。

 

 梅雨明けしたら・・・本格的な夏がやってくるのだろうけれど、それはまた・・・暑さとの戦いの毎日がやってくるということだ・・・。これもまた・・・自然の流れなのだからともに生きていくしかないのだけれど・・。

 

 10時のフェリーで県の老人大学の方たちがやってくるので、その案内や説明をやって欲しいということで待っていたのだが、フェリーが大幅に遅れてきて、結局・・中止になったのか、連絡はなかった。そんなこんなで、今日は何の成果もない。

 

 霧笛の音で起こされたもので、昼食後はついつい・・居眠りをしていたら・・・。

 ものすごい・・・轟音で起こされた・・・。「バババババババ・・・」 頭上に大型ヘリでもやってきたのかと・・・飛び起きて空を見上げたが何も見えない・・・。あれは船の音でも島のトラックの音でもない・・・。

 車で海に出てみると・・・海の上を・・・戦車みたいなものが高速で走っていく・・・。すぐさま追いかけたが・・・あっという間に・・・高見島方面に消えていった・・・。「なんじゃ、あれは!!」

 すると・・・後ろからもやってきた・・・。

 

 「なんじゃ、これは・・・」・・・。どうやら海上自衛隊のホバークラフトらしいので、すぐさま家に戻って調べてみた・・・。この船には・・・「2102」の数字が全面に見える・・・。

 

 どうやら・・こういうものらしい。これは東日本に災害派遣された海上自衛隊の「揚陸艇:LCAC(エル・キャック)」らしい・・。護衛艦や潜水艦はたまに見かけるが、こういうものは初めてだ・・・。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 


お遍路の マスク姿と すれ違う

2011年02月23日 | 今日はすっかりとアートの世界

 朝方はいい天気だったのだけれど、お昼には雨になって・・夕方からは真冬のような冷たい北風になった・・・。

 

 いつも・・・おひな祭りが近づく頃・・というか、二月上旬になると「ふきのとう」が一斉に吹き出すのだけれど、今年は少しもその気配がない・・・。で、そこかしこにある・・道の駅の産直市場を回ってみた・・・。

 

 しかしのかかし・・・、どこにもふきのとうなんぞ出ていない・・・。おかしいね・・。

 

 これは、この地区のお年寄りたちが作った竹細工の品物・・・。竹の性質、竹の特性をうまく利用してさまざまな動物や動きを表現している・・。

 この道の駅の反対側にあるのが・・・「お遍路交流サロン」という建物・・。

 

 ここにはさまざまなお遍路に関する資料が展示されている・・。これらの品物は・・・お遍路が終わった方から贈られたものや寄贈された品物なのだとか。仏像とか納経帳とか・・・高価で貴重な物も多い・・・。

 

 これは納め札を集めた額だけれど、白い納め札は1~4回の四国遍路をした方、青い納め札は5~7回、赤い納め札は8回以上、銀の納め札は25回以上、金は50回以上、錦のお札は100回以上お遍路をされた方が納めるもの。
 お四国を一回、回るだけでも時間とお金が必要なのに、20回とか50回とか回るのは至難の業。それでも・・・・100回以上を回った人もたくさんいるらしい・・・。

 

 この・・・お遍路交流サロンの駐車場にいるのが・・昨日に紹介した・・NHKラジオの「80ちゃん号」だ。

 右のアナウンサーが高松放送局の廣瀬雄大、左端が山田重光アナウンサー。中の二人はゲストの方で、ボランティア・ガイドをやってるらしい。白髪のおじさんは「お遍路道を世界遺産にしよう」と頑張っている人らしい・・。その後は・・お土産用のお菓子を作った方や、このお遍路道を掃除している地区代表の方なんぞが・・。

 今日も・・・小学生がやってきて番組を見学していた・・・。

 

 私は・・・昨日に見学したものだから、今日はリハーサルだけを見て・・・山を下った・・・。流れだけわかればそれでOKだ。この・・80ちゃん号は毎年、この頃にやってくる。昨年は・・・さぬき市志度の「平賀源内資料館からの中継があったし、その前には・・・東かがわ市の「ふる里の家」からの中継があったし、その前には・・引田ひな祭りの中継があった・・・。

  

  あ、今日のお昼は・・さぬき市長尾の「手打ちうどん おかだ」になった・・。

 

 ここは一般店。ここにもしっぽくうどんはあるのだけれど、少し前に食べたものだから、今日は少し違ったメニューを選んでみた・・・。それが・・・「たまごとじうどん小」つまり・・玉子どんぶりみたいなもので、それがご飯ではなくておうどんという感じ・・。

 

 タマネギとかしいたけとかが入っていたように思う・・・。それが330円。今日は・・・おいなりさん二個で150円。合計480円。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

 


ひだまりに 絵手紙を書く 笑顔かな

2011年02月22日 | 今日はすっかりとアートの世界

 今朝は大霜の朝になって春めいてきた、気持ちのいい朝になった・・・。

 

 こんな気分のいい日には・・・「いいものを見ておこうか・・・」と、いうことで、丸亀城に向かった。NHKラジオの第一放送のお昼の番組で・・・、丸亀城の鉄砲隊が紹介されるということを聞いていたもので行ってみた・・。

 

 丸亀城というのは香川県丸亀市にあるお城で、京極氏という大名が住んでいたお城らしい。詳しいことは知らないのだけれど・・・。昔は亀山城というてたらしい・・・。

 

 この丸亀城に、NHKラジオの「ここはふるさと旅するラジオ」の80(はちまる)ちゃん号がやってきて、生放送でふる里紹介をする番組・・。昨日は観音寺市からだった・・・。

 

 これが「80ちゃん号」・・・。この裏手がステージになっている。で、今は・・・「フォーマ」という某携帯電話会社の通信方式で東京の放送センターとつながっているのだとか。それは便利だけれど、伝送品質も向上したもんだわ・・。少し前だと、電話の声・・っていう感じだったのにね・・。「フォーマ」も進化してるのやね、私のノートPCも・・フォーマ通信なんだけれど、画像伝送は遅いと思う・・・。

 

 こちら側が・・・ステージで、鉄砲隊の隊長がインタビューを受けているところ・・。右側の若い子は高松放送局の池野健アナウンサー。赤いノートを持ってるのがNHKの山田重光アナウンサー・・。

 その後・・・お城の有名人を捜したら・・・いたいたいた・・。

 

 このおばさん、絵手紙を毎日書いてはる・・・。「お城のおばあちゃん」と呼ばれている・・「十河博子」さん、75歳。で、おばあさんが書いた絵手紙をもらえるというのだ。しかも、選んだ絵はがきに、「2011.2.22 嫁入り」とサインしてくれる・・。

 

 で、ありがたく頂いてきた・・・。

 

 鉄砲隊もいいけれど、80ちゃん号もいいけれど、このおばちゃんにもらった絵手紙が暖かいと思った・・・。

 そうそう・・、今日のお昼は・・・丸亀に来る途中立ち寄った神社の中にあった・・・。

 

 坂出市と丸亀市に挟まれた・・・綾歌郡宇多津町・・・という小さな町にある神社、「宇夫階(うぶしな)神社」の境内にあって、神職さんの息子さんがやってるうどん屋さん・・。だから・・「うぶしな」という名前になった。

 

 神社の納屋を改造したようなお店で、店内はそう広くはないが、メニューも多くないので回転は早いと思う・・・。今日は・・・かけ小だけを頼んだ・・・。だから・・・250円オンリー・・・。ま、昨日、デジカメを買ったから、今日は質素に倹約モードかな・・・。

 

 麺は・・・、あの、行列のできる「おか泉」で修行しただけのことはあって、つやがあって、なめらかで、こしがある・・。これだと、もう一杯、食べられると思ったけれど、店内が混んできたのでそのまま・・店を出た・・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


特別付録>第61回NHK紅白歌合戦 「ウタ♪ウッキー 歌の力」

2010年12月30日 | 今日はすっかりとアートの世界

第61回NHK紅白歌合戦 「ウタ♪ウッキー 歌の力」

 日本にまだ今のような暦やカレンダーのなかった時代には、一年は穀物の種をまく春と、収穫をする秋の二つの季節からなると考えられていた。このことから、一年の始まりは・・・「春の初め」であるとされ、「立春」が一年の最初とされて、すべての生物が生まれ出る春が物事のスタートだった・・・。

 だから・・年賀状には・・真冬なのに・・「迎春」と書くものらしい・・・。

 

 「めでたい」という言葉も、「芽出度い」=芽が出る、から来ていると言われている。とりたてて、お正月だからおめでたい・・という訳でもないらしい・・。

 日本人は、その一年のあいだに、農作業を中心とした働く日と、休む日を合理的に配置してきた。また、一年の生活を二つに分けて考えていた。それが、 ハレ(晴)とケ(褒)である。

  

 「ケ」は日常的なものとされ、ケの日には労働をしなければならなかった。それに対して、「ハレ」の日は特別な改まった日で、お祭りをする日であり、むしろ働いてはならない日となっていた。このハレの日が、年中行事の日にあたり、また、お休みをする日でもあった。

 冒頭のように、大昔の日本では、一年を春と秋の二つの季節に分けて考えていたため、一月から六月までと、七月から十二月までは、それぞれ同様の行事が繰り返されてきた。そのことが特によくわかるのが正月と盆であった。暮れの墓参り、歳暮、年神祭りのための松迎え、年棚作りに対して、盆の墓参り、中元、盆花迎え、盆棚作りなどがそれぞれ対応しているのだ・・・。

 

 現在は、大晦日の夜中、つまり除夜の鐘をつき始めるときを新年の始まりとする・・・。「あれれ・・・まだ、新年になっていないのに・・・」などと、時計を気にしながらささやく一がいるけれど、昔はおおらかなものだったのだ。

 また、私たちは元日の日の出の時や目覚めたときを新年と考え、「明けましておめでとうごぎいます」とあいさつしたりする・・。

 
 
 ところが昔は、日が暮れたときがその日の始まりで、次の日が暮れるまでを一日と考えていたので、大晦日の夜は、すでに新年が始まっているということになる。 そのため、大晦日の夕方までに正月を迎えるすべての準備を整えて、日暮れとともに年神を迎えて年神祭りを行わなければならなかったのだ。

 さて・・、大晦日の夜を一年の日暦(ひごよみ)を除く夜と言う事で除夜と言う・・。ま、一年の最後の夜を締めくくり、暮れゆく年を惜しむ意味で昔からいろいろな行事が行われてきたのだけれど、その中に除夜の鐘を108回、鳴らすのがお寺さんのお役目みたい・・。

 

 この108という数が人の煩悩の数だというのは有名なのだが、その数の由来については諸説があるらしい。

  一番簡単なのは、「四苦八苦」=(4*9)+(8*9)=36+72=108になる・・。

 こういうものもある。人間の感覚を司る、眼(げん)耳(に)鼻(び)舌(ぜつ)身(しん)意(い)の六根が、それぞれに好(気持ちがよい)悪(いやだ)平(何も感じない)の三種があり、3*6=18の煩悩となり、これが、また浄(きれい)染(きたない)の2種に分かれて、18*2=36になる。さらに、現在・過去・未来の三つの時間が関わって、36*3=108となる。そのほかには、一年の12ヶ月+24節気+722候を合わせると108になる。など、いくつもの理由と数字遊びみたいなものまで出てくる・・・。

 一方、鐘を鳴らすことは中国の宋の時代に起こったものでその打ち方は『勅修清規』に「慢(よわく)十八声、緊(はやく)十八声、三緊三慢共一百八声」と記されているし、107回までは旧年中に、残りの1回を新年につくようにするのが慣習であるとするお寺さんもある。

じゃぁ、また、夕方にでも・・・。


さざなみを 残して白鳥は 夢を追う

2010年05月25日 | 今日はすっかりとアートの世界
 今日も朝からどんよりとして曇った空で・・今にも雨が落ちてきそうな天候だった。

 けいこばぁは・・若い頃から「商船大学生」にあこがれていたようで、なんとしても、「登檣礼(とうしょうれい)」を見たかったらしい・・。しかしのかかし、こうした船は・・月曜とか火曜日に出港し、金曜日か土曜日に入港するもので、普通の人は目にする機会がない・・。ところが、今日はうまくお休みになったもので、高松・サンポートにいそいそと出かけた・・。

 登檣礼(とうしょうれい、Manning the yards)とは帆船の出航時に船員が帆桁(ヤード)などに配置し、見送りに来た来客に対する謝礼を意味する儀式のこと。なお一般の艦船の場合は「登舷礼(とうげんれい、Manning the rail)」が行われる。

 

 日本国内では現在、独立行政法人航海訓練所が所有する帆船「日本丸」「海王丸」が訓練航海の為に出航する際に訓練生による登檣礼が実施される。また大阪市が所有する帆船「あこがれ」による大阪市消防出初式において登檣礼を見ることができるらしい。

 13時から体操やミーティングがあって、13時半に、「出港準備!」の命令が出た。各種ロープが解かれたり、タグボートがエンジンの回転数を上げて作業を開始した。13時55分から実習生が用意を始めた。

 

 「のぼれ!」の号令で、実習生がマストに昇り始め、

 

 

 次々とヤードにたどり着く。そこでいったん待機。全員の足並みがそろったところで、「わたれ」の号令で、ヤード(帆桁)のフートロープを渡って待機・・・。

 

 バウスプリットという船首から前方に突き出たマストの最前部にいるリーダーの相図で、全員が一斉に行動を起こす。姿勢を正し、ヘルメットを胸に当て、それから大きくヘルメットを振って「ごきげんよおぉぉっ・・・!」を三回、繰り返す・・・。

  

 登檣礼(とうしょうれい)のはっきりとした起源は明らかではないが、16世紀イギリス海軍の記録に見られると言うことなのでかなり古い歴史があるということになる。当時は皇族らの送迎、司令官や艦長の交代の際や、出征、遠洋航海など壮途に就く船に敬意を表する礼式だったそうで、現代の登舷礼は登檣礼の名残である。

 日本人がはじめて見た登檣礼は、 1860年(万延元年)遣米使節として、正使 新見豊前守正興、副使 村垣淡路守範正、 目付 小栗豊後守忠順らが米国軍艦ポウハタン号でアメリカに渡る途中、ハワイに寄港 した時のようである。王様が来訪した際の様子を、村垣淡路守範正の「遣米使日記」では、

 「船中奇麗にして胡楽を奏し、水夫は帆桁毎に数百人立ち並て 祝砲二十一発二度打たり--国君を祝すは此数成よし、水夫帆桁に登るも重き禮なるよし--」 と記録している。

 

 日本で最初に登檣礼が採用されたのは昭和28年に、日本丸が帆装復帰し、はじめての遠洋航海が企画されたとき日本丸船内で規律のあり方が問題となった。何せ戦後はじめての遠洋航海だったからだ。結局、各国の海軍礼式令や国際的慣習を調べ、これに準拠して再編成され、このときはじめて登檣礼も採用されそのまま日本丸、海王丸での慣例となったということである。しかし、安全を考えて、やり方を少し変え、ヤード上に立つ方式からフートロープに立つ方式に変えたそうだ。

 

登檣礼は各ヤード(帆桁)に人員を配して行う帆船で最高の礼である。日本丸では、バウスプリット、各マストのヤード及びジガーマストのトップ台に実習生を配し、職員は登舷礼の配置に立ち、笛の合図でヤード上の実習生は岸壁側に注目、士官は敬礼をする。

 敬礼が終わるとバウスプリットの先端に立つ実習生が後ろを向き、「脱帽」、「ごきげんよう」の号令に合わせ、全員で「ごきげんよう」と発声しながら帽子を振りこれを3回繰り返し、「着帽」してマストから降りてきて礼を終わる。

 

 外国の海軍所属の帆船では、ヤードの上に立つ昔からの方式をとっているところがほとんどらしい・・・。日本の練習帆船では、安全を考えてフートロープに立つ方式をとっている。

 一方、【登舷礼(とうげんれい) 】とは、 海軍礼式の一つで、乗組員全員を上甲板の両舷に整列させて、船外の相手に敬意を表すもの。貴人の送迎や特別の出入港に際し行うもの。登舷礼式ともいう。

 
 

 だから、この日本丸でも、一般の職員や乗組員は甲板上に整列、岸壁上に注目して、この登舷礼を行っていた。

 大型の空母の場合と、小さな潜水艦の場合も参考に調べてみた。

 
 

 ここでも、何度も書いているが、船は必要に応じて、信号旗(国際信号旗)を掲揚する。主なものに、アルファベットのAからZまでの26個の1字信号と、二つのアルファべットを組み合わせた2字信号がある。この2字信号のうち、UとWを組み合わせたUWは、「ご安航を祈る」即ち「安全なる航海を祈る」という意味である。

 

 で、これは岸壁に立てられた「UW」旗。有志がが立てたものらしい。また、家族からは、小旗の「UW旗」が打ち振られていた。

 

 船にとって最大の災難は荒天だ。この荒天に見舞われないように、平穏で安全な航海を続けることは、船の最大の念願である。大海原で2隻の船がすれちがったとき、お互いに相手の船の安全を願って「UW」つまり「ご安航を祈る」の信号旗を掲揚するのが慣習となっている。

 

 なお、UW旗の横の青地に白四角旗は「出港準備中」赤と白の旗は「水先人乗船」の印。UW旗の下にあるものは日章旗に似た「1旗」で、岸壁のUW旗に答礼する「UW1」。「ご協力に感謝する。安全な航海を祈る」という。「ありがとう!」という意味らしい。

 

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。

いつでも夢を より 「寒い朝」

2010年01月15日 | 今日はすっかりとアートの世界
いつでも夢を より 「寒い朝」


 この歌が流れたのは・・私が中学校の二年生か・・そのあたりだったように思う・・。

 その時の現代国語の先生が・・・音楽の副免を持っていて・・・この歌をピアノで弾いてくれた。この曲の途中で・・・ロ短調かに・・転調する・・・。ここの部分が・・・この歌の良さだと言うた言葉をいまだに覚えている・・。

じゃぁ、また、明日、会えるといいね。


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