早くも二月の28日になって、単純に考えてみれば・・12ヶ月分の2ヶ月が過ぎてしまった・・・。
さて、映画「喜びも悲しみも幾歳月」(木下恵介監督)では、当時の燈台守の暮らしが描かれていた。四国村には3棟の退息所(燈台守の住宅)と燈台が移築されている。
大久野島燈台は三原瀬戸航路の要所を照らす燈台として明治27年5月に点灯された。燈台は基礎が3.8mの円形で高さ5.1m直径3.1m。灯塔部は花崗岩の切石積になっており、その上に乗る塔器は鋳鉄(ちゅうてつ)製で高さ2.4メートルにもなる。
旧江埼燈台は瀬戸内の難所といわれる明石海峡を望む、淡路島の北端にあった。英国の技師 R・H・ブラントンの設計により、明治4年(1871)に点燈した、わが国8番目の洋式燈台。退息所は石造で、壁体は奥行60cm程の切石を積み、木造トラスで桟瓦葺の屋根を支えた重厚な建物で、平成7年(1995)1月の阪神・淡路大震災により、石造の壁に大きな亀裂が入り、屋根瓦が落下するなど壊滅的な被害を蒙った。そこで、この四国村がこの建物を移築し、復原保存する措置をとった。
この退息所は本格的な石造建築であり、建築当初の木造トラスを残すなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物である。
鍋島灯台は坂出市の沖合い、鍋島にある。江埼燈台と同じく英国の技師R・H・ブラントンが設計した洋式燈台で、初点灯は明治5年(1872)であった。職員宿舎の退息所は翌6年2月に竣工し、昭和30年(1955)頃まで本来の宿舎として使用されたが、その後は海上保安本部の通信施設となっていた。
入り口上にある乳房のようなものが、無線通信用の碍子(ガイシ)で、送信用二本、受信用二本を接続するもの・・。室内にもこれと同じものがあって、電線を接続して通信を行っていたもの。
建物は石造で、正面に円柱6本を建てて吹きはなしとし、壁は奥行60cm程の切り石を積み、桟瓦葺の屋根の重厚な建物で、間取りは中廊下式で、暖炉のある部屋、畳敷きの部屋などがあるのが興味深い。また、外側に浴室や便所などが張り出しており、付属の物置も同様の石造となっている。この退息所は、本格的な石造建築で、正面に円柱列を建てるなど、洋式燈台の黎明期の貴重な建物となっていた。
クダコ島燈台は愛媛県松山市の沖、クダコ水道にあった。明治35年(1902)7月に着工、翌年3月に竣工、初点燈した。燈台の無人化にともなって、この退息所は不要になったため、当四国村に移築復原されることになった。
この建物はレンガ造で、外壁がモルタル仕上げ、屋根は桟瓦葺である。内部は左右二つに分け、二家族用にし、押入付き和風の部屋が配してあり、かまどもあり、また、付属する物置も退息所と同じ構造である。この退息所は明治後期の建築で、部屋も和風の要素が強くなっており、洋式燈台初期のものとは幾つかの点で異なり、わが国の燈台建築の変遷を知るうえで貴重な資料となっている。
海の安心・安全をまもるという大きな使命を帯びた人たちが、過酷な自然の中で生き抜いた証しの建物ということで、大いに関心を持つべき施設群であるといえよう・・。
じゃぁ、また、明日、会えるといいね。
これって、何のことかいなぁとしばらく考えておったですよ・・。「まほろば」って読むんですねぇ・・。30分は考え込んだですよ(爆笑)
鍋島灯台は今も与島と陸続きになって残されておりますが、旧待息所は・・灯台と同じブラントン設計による1873年(明治6年)竣工、石造の旧退息所(灯台職員宿舎)、倉庫、水槽(3基)、日時計が、1998年(平成10年)に「四国村(四国民家博物館)」へ移築保存されている。これらは2000年(平成12年)、国の登録有形文化財に登録されているそうです。