3日のさぬき市地方は高気圧に覆われて晴れていた。気温は18度から29.5度、湿度は84%から50%、風は1mから2mの西北西の風が少しばかり。明日の4日のさぬき市地方は、引き続き高気圧に覆われて晴れる見込み。
収縮期109mmhg、拡張期65mmhg、脈拍80bpm、体温36.3c/酸素濃度97%/体重63.8Kg 室内気温19.8c/室内湿度56.5%/気圧1010hPa 体調に変化はない。今日の日の出は04:52分、日の入りは19:12分 月齢は3.6の中潮。
ふっと気がつけば、「遍路墓学事始」の概説部分の原文が消えている。あちらこちらと探してみたけれど見つからない。幸いにも、それを印刷して試験製本した原稿が残っている。それを見ながら、再度、入力しなければならないのだが、スキャナーという優れものがある。
これで一枚ずつ読み込んで文章化する。それをコピペで原稿に仕上げてゆく。慣れれば、十数ページくらいはあっという間に復元できる。それを朝の4時から6時半までやっていた。6:30分からはラジオ体操。病院のリハビリ担当ドクターからの勧めである。もう、半年以上もやっているのでクセになっている。それが終われば作業服に着替えて、今日も「植木屋」さんに変身する。
部屋にいる時には作務衣でのんびりとしているのだが、作業服に着替えて安全ベルト(専門用語で胴綱)を締めると気分的にシャキっとする。植木屋さんだからヘルメットまではいらない。
昨日の剪定分だが、奥方に褒めてもらえると思ったら「切り込み過ぎよ。秋ならともかく夏場だから枯れてしまうよ」とお叱りを受けた。これでも控えめにしたつもりなのに。秋から冬にかけては葉っぱが呼吸しないから大きく切り詰めるのだが、今回は多めに葉っぱを残したつもりだけれども。
今日のターゲットは、この2本の椿の木。右はバラだから少しでも切ったら大目玉をくらってしまう。触らぬバラにたたりなし。
で、こんなものにしておいた。ずいぶんとさっぱりとしたではないか。
これで今回のツバキの木、3本の散髪はおしまい。切った枝や葉っぱが乾いて軽くなったらお片付けするが、当分はこのまま乾燥させておく。生の枝や葉っぱは水分があるから重いのだ。
植木屋さんが終われば、そのままのスタイルでホームセンター巡り。電気工事用のコンセントとか、靴の修理用の接着剤とか、バラ園用のホウキやレーキーなんぞも仕入れておく。で、今日のお昼は「冷麺」だが、同じような冷麺だが、中身は「そうめん」。例の徳島の半田そうめんを冷やしラーメン風にトッピングしてみた。
午後からは奥方の靴の修理である。若い頃には別荘だ、クルーザーだと豪勢な暮らしをしていたのに、最近は壊れた靴でも「直してちょうだい」という始末。これだって、何度も修理したのだけれど、材質が古くなって、すぐに接着剤が剥がれるのだ。
そこで、丁寧にヤスリがけをして汚れや古い接着剤なんぞを削り落とすことから始める。ヤスリもプラスチック製のヤスリである。
その後、セメダインを塗ってしばらく乾燥させる。10分か15分くらい乾燥させてから接着する。この一手間が大事になってくる。
で、接着したら、大型のクリップなんぞで固定して12時間から24時間置けば大丈夫だと・・・思う・・。かな。
お昼からは、マシン室の気温が30度を超えたのでエアコンを入れた。エアコンを入れると、今度は寒くなってくる。ややこしい時期だ。
今日の掲示板はこれ。「人生は苦労している時が花かもしれない」というもので、いつもの町内の善楽寺さんのお寺の掲示板から。どこの誰の言葉かはわからない。出拠出典も書いてくれたらありがたいのだけれど。「苦労の多い人生」と「苦労の少ない人生」。「どちらか選べ」と言われれば、大半の人が「苦労の少ない人生」を選ぶはず。できるだけ苦労なんぞはしたくない。人生を選べるなら、大半の人が苦労の少ない楽な人生を選ぶはずだと思う。では、1つの苦労もない人生がいいかというと、それはそうでもない。苦労した経験がないと、なかなか人は成長しないもの。体は成長しても、心の成長は停滞したまま。人の話を聞いても、きちんとイメージできないため、共感しにくくなるし、また自分が話す言葉にも、共感が得られにくくなる。苦労していない人の話は、的外れだったり非現実だったりして、なかなか心には響かない。苦労を経験するのはつらいけれど、一度も経験ないのは、もっとつらい。苦労の少ない人生は、楽かもしれないが、薄っぺらいのだ。人生は何のためにあるのか。人生は「あのときは本当に大変だった」と言うためにあるのだと思う。たしかに苦労をしている最中は大変かもしれない。肉体的にも精神的にも苦しく、早く抜け出したいと思うばかりだろう。しかし、一度地獄のような苦労を経験しておけば、後が楽になる。「あのときに比べれば大したことない」と思えるようになるからである。一度でいいので「あのときは本当に大変だった」と言えるくらいの苦労を経験しておくことだ。「平凡な日常に感謝」「生きているだけでありがたい」と思えるようになるなら、地獄を経験したことも価値があるというもの。「人生は苦労している時が花かも知れない」「あのときは本当に大変だった」と言うために、今の苦労を乗り越えたいものである。
じゃぁ、また、明日、逢えたら、いいね。