Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

軌跡~「国靖し」とは・・・

2005-08-17 23:40:00 | インポート
8月も後半に入りました。盆休み明け、昨日は東北が強い地震に見舞われ、建物の損壊により負傷なさった方が多数。又、帰省の足にも乱れが生じています。関係各位のつつがなきを祈ります。
さて何年か前の事ですが、確か日展の会場にて「惜春」と言う題名の絵を拝見した事があります。
以前の事ゆえ作者名も忘れてしまったのは遺憾ですが、今まさに出撃せんとする神風特別攻撃隊員らしい方と、彼を見送る婚約者とおぼしき女性が描かれていました。
背後には先に離陸し、帰らぬ任務に赴く僚機の機影がありました。切迫感、そして緊迫感に充ちた仕上がりは今も我が心に焼き付いていて、忘れる事ができません。
この神風隊と、人間魚雷と呼ばれた回天特別攻撃隊は、大東亜戦争こと太平洋戦争の末期、既に戦況が不利に傾いていた時期、その打開と好転を期して組織されたやに聞いております。敵艦への命惜しまぬ体当たり攻撃で知られ、犠牲者は数千名と言われています。
良く「無為の死ではなかったか」との指摘があるのは皆様ご存知かと思います。
無為の死・・・半分はそうかも知れません。だが、少なくとも残り半分には、何か崇高な大義なるものを探し出す事ができるのではないでしょうか。
特攻隊の方々も、その内何名かは本意ではなかったかも知れない。ですが自らの意思にて赴いた、恐らく大部分の方々は、「一死報国」に価する大義を全身に感じ、不帰の片道切符を手に、戦地へお越しになったと言うのは行き過ぎているでしょうか?
今から40年以上前、1962=昭和37年夏、日本人初の小型ヨットによる単独太平洋横断を果たした我国マリン・スポーツの始祖と言われる海洋冒険家、堀江謙一さんがその航海中、ミッドウェー島とほぼ同経度まで達した時、この20年前に繰り広げられた日米ミッドウェー海戦を偲ぶ日記を綴っていらっしゃいます。以下少し記事を引用させて頂きます。
「6/24(日)第45日。
現在地点はミッドウェーと同経度らしい。
何かで読んだ大海戦の事を思い出す。
開戦以来、ずっと勝ち進んでいた日本軍が、ここの海戦で決定的な敗北を喫したのは1942=昭和17年の6/6ではなかったろうか。それが転回点になって、日本はズルズルと敗戦に押し込まれたと覚えている。
夕方、南を向いてデッキに立つ。夕陽が身体を一杯に包む。長い黙祷を捧げました。
何となく全身が熱くなり、目頭が痛くなりました。誰もいないんだな、と思ったら熱いものがこみあげて来るのでした。
航空母艦4隻、飛行機約300機が撃破され、多くの先輩達が散って行った所なのだ。
僕の艇はここを転回点として、新大陸を目指します。この世界最大の太平洋を乗り越えて、勝利を掴んで見せます。
先輩、僕は今、花束を持っていない。許して下さい。しかしもし、この艇が無事に金門橋をくぐったら、それが先輩に捧げる花です。」
この文言が、戦没の各位に対する想いの全てを語っている気がします。それは特攻に赴いた方々に対しても同じ。私は初め、今夜の記事の題名を「特攻」にしようか否か、迷った程でした。ただ、徒に戦死を美化するのもまずいのは事実ですよね。
きっと戦没各位の霊魂は、堀江さんの艇を後押しして下さったに違いありません。
黙祷より約1ヶ月半後、同氏は合衆国西海岸に到達、見事初志を成し遂げます。
大志を抱いた若者に味方した霊魂・・・私も「英霊」とお呼びしたかった!だが・・・。
続きは又次回、申し上げる事と致します。*(日本)*

コメント
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