Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

見識~「国靖し」とは・・・

2005-08-20 23:39:00 | インポート
先日の続きです。
前回私は、戦没及び戦災犠牲各位の御霊を心ならずも「英霊」とお呼びする事を断念した、と申しました。これは長崎の原爆忌の当日、愛読紙「読売新聞」の文化欄記事を拝読しての決断であります。
戦没、そして戦災犠牲の各位は未だ、国民の意思統一による国家的追悼ができないでいます。大きな一因は「複雑な史実を国家が総括せず、国の立場をも明確にせず、政府もきちんと説明しなかった事による」とされています。その事が戦後実に60年の長きに亘り、問題を先送りにし、今日に至ったと言えます。ただ、先の大戦についての国民の評価は分かれており、その総括は容易でなく、冷静な歴史的検証が叶うのには後半世紀はかかるとも言われているのも事実です。
では、戦後60年の今、追悼表敬の為に何ができるのか?
そのヒントを新聞にて提起なされたのが作家、保坂正康さんのご見解です。
同氏は「死者を安らかに眠らせてはならない」との思想の下「今一度、戦没各位の遺稿、資料等を良く読んで咀嚼、吟味して行く事こそが真の追悼、慰霊表敬に繋がる」とのお考えを明らかにしています。
「特攻を初め、兵士の方々の苦しみや哀しみを考えず、生き残った者のエゴイズムで無為の死とか英霊とか決め付けた所で慰霊にはならない。一方で哀れむだけでも駄目で、彼らの本心を汲み取りつつ、何故彼らは亡くなったのかを冷静に考えて行く事こそが慰霊である。」
そしてこうした吟味と思考を通してこそ、健全なナショナリズムが育つと仰っています。
「戦後日本はナショナリズムを偏狭な民族主義として斥けて来た為に、逆に極端なナショナリズムを生じている。
兵士各位の残した家族や友人との言葉のやり取りの中に、我々が繋いで行くべき健全なナショナリズムが潜んでいるのでは」との考え方をご展開になっています。
なるほど、真の検証はこれからと申しても良い訳ですね。私はこのご見解に心よりの敬意を表しています。
ナショナリズムと愛国心は同義語。国民として必須の想いではありますが、同時に我々はやはり先進国、古い表現なら1等国の国民です。決して感情におもねる事なく広くて長い巨視の心をもって、こうした問題も見て行かなければならないと言う事でしょう。私が戦史を考える上での指標を1つ手に入れた気が致します。
恥ずかしながら実は私、保坂さんの著書をまだ拝読していません。これは今後の大きな宿題となりそうです・・・苦笑。*(日本)*

コメント
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