Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

御巣鷹山日航機事故の記憶

2005-08-12 23:38:27 | 日記・エッセイ・コラム
1985=昭和60年夏の群馬県御巣鷹山にて発生した日航機墜落事故より今日で満20年。今回の追悼慰霊式にはこれまでで最多の400名超の遺族がご出席とか。航空機単独では史上最悪、犠牲520名の大惨事。先の大戦共々その記憶を決して風化させてはならない。
当時俺はまだ20代半ば。以前の勤務先の都合で神戸赴任中。たまたま盆休みで帰省していてこの報に接す。
速報にて入った第1報は、国内線旅客機の機影がレーダーより消えると言う信じられないもの。「アホか?そんな事あるもんか」と言うのが正直な感情だった。でもこれ、本当の話。薄々墜落したかも、との不安はあったが不幸にも的中してしまう。事故当夜、直ちに航空自衛隊機が現場確認に向かったが詳細把握は叶わず、結局翌朝詳細を知る事に。そして・・・。
考えたくない最悪の結末。生存者僅か4名。事故原因は主に操舵系の破損だった様で、残された音声記録装置には乗員達の、最後まで諦めなかった苦闘の様子が記録され、悲痛な思いが募ったものだ。何故日常の点検で異常や不調が把握できなかったのか、今でも悔いが残る所だろう。
それ以上に問題なのが最近の事故や不祥事。今夜も福岡空港にて、日航の関連会社便が機体部品を落下させ、地上にいた車輌などに破損の被害が出ている。もし歩行者の頭上だったら物損では済まないだろう。
陸、海、空の関係なく最近の我国の乗り物はその運行を巡る事故や不祥事がちと多すぎやしないか。
歴史上余りにも被害の大きかったこの事故の教訓が正直生かされていないのではないだろうか?
関係各位はもう1度この事故に想いを致し、反省し直すべきではないのか。DSCN1207



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礎石~「国靖し」とは・・・

2005-08-12 00:01:00 | インポート
大東亜戦争こと太平洋戦争の期間の内、国内最大の激戦場となった沖縄。本島南部、現在の糸満市摩文仁(まぶに)岬の高台に「平和の礎(いしじ)」が建てられています。
建立は1995=平成7年。時丁度終戦50周年でありました。
1945=昭和20年4月の合衆国軍初上陸よりほぼ3ヶ月、同年6/23の陥落までに日米双方の軍関係者と民間人、計約20万人超が犠牲となっています。
「平和の礎」にはこの戦闘にて落命された各位の氏名が国籍、軍関係者か否かに関係なく記載されており、特に世界唯一と言われる、当時敵方だった合衆国軍関係者約14000名の氏名が収録されている事実は注目に値します。つまり「亡くなれば敵味方関係なく同じ魂」と言う事でしょう。
「慰霊の日」の6/23、そして春秋の彼岸には多くの遺族がここを訪れる様です。
全国的にそうでしょうが、沖縄では家族や祖先の霊魂を各家庭にて大切に祀っており、墓地でもなければ慰霊塔でもないこの礎が、墓や位牌の代わりを務めているのでしょう。
又当所では、犠牲の各位が、住んでいた各集落毎に刻銘され、集落によっては犠牲者が4割超となった所もある由。戦闘と言う異常な体験にて傷ついた生存者、そして共同体双方の痛みが共鳴し、慰め合える場になっている。つまり戦争体験がトラウマになっている方々の「癒しの場」として機能していると言われています。
様々な追悼、慰霊の拠点である「平和の礎」。それはこの戦で県民の4分の1が犠牲となり、戦後も米軍基地問題等と対峙し、苦難の現代史を歩んで来た沖縄の知恵ではないか、と今回の記事の出典となった読売新聞は結んでいます。
毎年国による追悼式典も行われるこの施設、本土における戦没者追悼、そして表敬問題のあり方に対する有力な提案の様な気がするのは私1人ではないと思います。
戦争には、実は勝利も敗北もないのかも知れません。*(日本)*

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