一茶の頃。江戸へでかけるとこういわれてからかわれた。当時多くの人が信州から江戸に出ていた。それは貧困がもとである。現金よりも「口減らし」傾向であったという。ムクドリは果樹園の残ったものをうるさくあさる鳥である。そんな姿を信州人にあわせからかったのだ。江戸のきた人々は重労働にあてられ、賃金を搾取されたり、疲れから命を落とすひとも多かった。
私の住んでいる「安曇野」は現在、米どころであるが、当時は水もなくただ原野の広がるところであった。当然人々は貧しく、多くの人が江戸に出ていた。
寛政年間、大庄屋代理「等々力孫一郎」なる人物が、この平に水を引くことを考えた。それが現在の「拾ヶせぎ」と呼ばれる水路です。
こう言葉で書くと歴史の話は簡単にすんでしまいますが、先人の足跡の重みを感じたいものです・・・・・・
私の住んでいる「安曇野」は現在、米どころであるが、当時は水もなくただ原野の広がるところであった。当然人々は貧しく、多くの人が江戸に出ていた。
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こう言葉で書くと歴史の話は簡単にすんでしまいますが、先人の足跡の重みを感じたいものです・・・・・・