昭和40年後半まで蒸気機関車が煙を吐いてあえいでいた。ちょうど私が木曽にいたころである。同僚で木曽生まれの先輩は高校通学の時、乗り遅れて「まってくれーーー」と叫んで走ったら汽車は止まってくれたと話していた。ありそうで、なさそうな話だと思ったが、当時はそういう時代かもしれない。
私の生まれたところは大糸線が今も走っている。もちろん電化だ。大糸とは大町、糸魚川の頭文字をとっているが、私の小さい頃は線路を鉄砲の弾にと、部分的に撤去し駅に行くまでかなり歩いた。だから、はじめて蒸気機関車にのったのは中学生になってからだ。窓の風景が走るように変わり、かるく乗り物酔いをした。
版画はハンガリーの国際列車である。国境を越え走る。
私の生まれたところは大糸線が今も走っている。もちろん電化だ。大糸とは大町、糸魚川の頭文字をとっているが、私の小さい頃は線路を鉄砲の弾にと、部分的に撤去し駅に行くまでかなり歩いた。だから、はじめて蒸気機関車にのったのは中学生になってからだ。窓の風景が走るように変わり、かるく乗り物酔いをした。
版画はハンガリーの国際列車である。国境を越え走る。