NHK総合テレビで、中国古代史の放送をしていた中で、多くの諺や格言の類が秦の始皇帝以前の戦国時代や戦争から生まれた、というくだりがあった。矛盾、呉越同舟、臥薪嘗胆などがその例として挙げられていた。世界的に目を向けてみてもたしかに、格言の中に古代ローマで戦争に明け暮れた一生を送ったジュリアス・シーザーの言とする格言は数多いし(例えば「ルビコン川を渡る」など)、また、現代では第二次大戦を勝ち抜いたチャーチル英首相の残した名言・格言も多い。戦争が多くの諺や格言を生み出しているのは洋の東西を問わないことがわかる。戦争は人間を極限に追い込む、そういった極限状態で、不朽の名言や格言が生み出されてくるのだろう。
論語の中に、過ぎたるは猶及ばざるが如し、という一文がある。先日観た海外の法廷ドラマで、優秀な女性弁護士が次々に無罪を勝ち取っていくというものがあった。この弁護士の口癖は、「被告が無罪を主張する時に、無罪を証明する必要はない。有罪だという証拠の中にある矛盾を突けば、どこかでほころびが出てきて有罪を立証できなくなるから。」と。確かに、全く矛盾なく有罪を立証するのはなかなかむつかしい。「警察や検察の違法な捜査や手続きの瑕疵は徹底的に詰めていけばどこかに必ずあるものだ。多くの弁護士はそれを見つけられない、あるいは見逃してしまうために無罪にできないでいる」とも言う。こうしていくつもの裁判で、検察側の起訴内容を論破し勝訴を重ねてゆくのだが、ある裁判で、いつもの通り無罪を勝ち取った後、実際には有罪であったということを確信する(被告の表情からみて明らかだった)に至り、この弁護士は、犯罪者を再び世に放ってしまったという罪悪感を持ち苦悩する場面が描かれている。このような葛藤がおきるのは、弁護士という職業の宿命かも知れない。かといって、弁護に迷いが生じて、中庸を求めていては当然冤罪も防げない。しばしば、「裁判を通じて真実を知りたい」という言葉が聞かれるが、この弁護士は「真実は必ずしも一つではない」という。何事もやり過ぎることは、やり足りないのと同じように正しくない。この言葉に奥深さを感じる。
読んでわかりやすい諺や格言と字面だけでは意味が分からない難解なものもある。「牛に引かれて善光寺参り」この諺もそのひとつだ。これだけをみたら、それがどうした、ということだが、その意味するところ(人に連れられて思わぬところに行きつく、というところから、極楽往生を遂げる信心、まで)を知れば一層味わい深い。
今はコロナとの「戦争」ともいわれている。この戦いの後に新しい格言がでてくるのだろうか。それとも、感染拡大阻止に名を借りた強権政治や言論統制が始まるのか。
庭の満天星つつじとジュンベリーが咲き始めた。
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