4階建てのマンションの最上階の自分の部屋は、時折すぐ前の道を歩く人の話し声がとても鮮明に聞こえることがある。それはまるで、窓のすぐそばででも話をしているようだ。音響の専門家なら知っているのだろうが、多分歩いている時ひとは足元を気にして少しうつむき加減になるので、声が地面のアスファルトや石畳に反響して上の方に届くようになるのかもしれない。あるいはそれがバルコニーの天井に反射するからなのか。
ある時など、それは夜も相当遅くなった週末の夜、遠くの方からだんだんと近づいてくる風に一組の男女の話声が聞こえてきた。声自体は明瞭に聞こえるのだが、意味は判らない話し声。そのうちに女の方が涙声になってだんだんと小さくなってとうとう聞こえなくなってしまった。窓から見れば、街灯越しに二人のシルエットが見えて様子がわかるのだろうが、なんだか聞いてはいけないものを聞くようでとてもそんな気にならない。いや、むしろこちらこそ迷惑をしているのだと思う。聞きたくて聞いているわけではなく、いやおうなしに耳に入ってくるのだから。どうも男の声のほうは何かなだめているようだった。多分深刻な事情があったのだろう。
それに比べれば今日の話は微笑ましいというか、心休まるものがあった。部屋の外から小さな子供の声がする。やはり音ははっきりと聞こえる。子供特有のすこし甲高い声なので良く通ったのだろう。ただ、何を言っているのかは分からなかった。それで窓から覗いてみると父親に手を引かれている小さな男の子供。懸命に父親に話しかけている。父親の方も子供の方を見やりながらそれにこたえているのだが、やはり何を話しているのか判らない。手を離すまいと子供は精一杯上に手を伸ばして父親の親指を握っている。繋がった二人の手と手。そこを通って血液が二つの体を巡っているようにも思えた。
それを見ていると、こういう瞬間は自分にはもうないのだ、という気がしてきた。マンションの前の道が大きな道にぶつかってT字路になっていて、そこを二人が左に曲がってすぐに塀の陰に見えなくなった。誰にでもにもああいう時があったのだ、その時父親は何を考えていたのだろう、あの小さな男の子は何を話しかけていたのだろうか。
先日自分の頭を洗っていて、少し髪が少なくなってきたように思った。そして、不意に、かつて老いた父の頭を洗ってあげた時に触れた父の頭の感触がよみがえってきた。顔は似ていないと思っていたが、実は頭の形はどこか似ていたのだろうか。それとも、髪が薄くなって頭の形がよりよく判るようになったからか・・・。
100年ほど前のドイツの陶人形。