回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

ベトナムの記憶

2021年01月31日 15時09分55秒 | 日記

海外駐在と言うことではイギリスとアメリカだけだが、出張ではヨーロッパだけでなく随分多くの国を訪れた。幸い東南アジアの国々にも足を伸ばす機会を持つことが出来た。たった一回のところもあれば、何度も訪れたところもある。それらの国の中で、今の寒い時期には特に南の国の暖かさが恋しく感じられる。

詳細については言えないが、極めて厳しい仕事で訪れた国の一つがベトナム。取り扱った事案が困難を極めた、ということであって、ベトナムの人々や自然環境といったことが原因ではない。本当に運が良かったのと、周囲の人に助けられて(全員ではないが)、何とか乗り切ったことは今でも忘れがたい。ベトナムには北部の首都ハノイと南部の商都ホーチミン、都合3回訪れた。8年ほど前になるがその最後の時に、現地の方から頂いたのがミンロン社製のプレート、題して「ベトナムの人々(Vietnamese People)」。

このプレートについている説明書によれば、「古くからの伝説によればベトナム人は、妖精と龍の子孫。このプレートは、妖精の化身である不死鳥と龍を彫ったもので、この龍は11世紀からベトナムを支配していたリー王朝時代の龍の複製。また、ベトナムは多くの民族により成り立っていることから、このプレートの外縁にはそれぞれの民族の特徴、文物、生活の様子を彫り込んである」とある。

この国での経験には厳しいものと楽しかったものの両方がある。このプレートを渡してくれた方はそれとなくこちらのそんな気持ちを汲んで、ベトナム文化の活き活きとした美しさを現わしたプレートを贈ってくれたに違いない。色褪せることのない独特の色調、熟練の技で細部まで精密に彫られたこのプレートを眺めていると辛い記憶は頭から去り、楽しい思い出が勝るようになる。熱帯特有のスコールが突然降り出し、また、突然に上がるホーチミンの、広い車道一杯に拡がっていたオートバイの列があの時のベトナムの熱気を物語っていた。

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電話

2021年01月30日 16時32分06秒 | 日記

週末自宅にいると固定電話(今頃まだそんなものを持っているのか、と言われそうだが)に売り込みの電話が架かってくることがある。今やどの電話機でもそうだろうが発信人の名前が表示されるので、それを見てからとることにしていて、それ以外の発信人の場合には普段は電話機に応答させている。相手が名前を名乗ってから、それによってはその時点で電話機が断りのメッセージを流す(一度親しい友人にこの手順で応対したら、ずいぶん慎重なんだな、と言われたことがあったが)。こういう便利な機能がついてからはいわゆるセールスの電話などでの不愉快な会話をしないで済むようになって助かっている。

今日の電話は、相手の名前を訊くと良く知られた不動産会社を名乗る。また先方の電話番号(携帯番号ではない)が表示されていたので、特に思い当たる節はないが、長野県や相続した北海道の不動産もあり、ひょっとして何か関係でもあるかと思って受話器を取ってみた。結局は今住んでいる都内の不動産を売る気はないかと言うことで、そのような予定はないというとすんなり引き下がった。

週末にまでこういう売り込みをしている不動産会社もご苦労なことだ。在宅勤務が増えて家の買い替えを考え始めたひともいるのだろうか。「今ならとても高い値段で売れますよ」という常套句だったが深入りするのは避けようとそれ以上の会話はしなかった。しかし、考えてみると、自分もいつかは不動産を処分しなければいけない時が来るはずだ。もちろん放っておけばあとは法律に従って処分(あるいは相続)されるのだろうが。ただ、住んでいた家が荒れ果てたり、知らない他人が処分していくのを想像するのは余り愉快なことではない。

そんなやりとりの後居間の飾り棚をみたら、ギリシャで買った壺が目に入ってきた。一つは酒の神バッカスが描かれたアンフォラ。もう一つは豊饒を司る女神だろうか。いずれも紀元前の壺の模造品。そういえばこの壺を買った時、土産物屋の店員が「これは実に古いものです。なぜなら、この壺の裏には「BC450」と彫られていたのですから間違いありません」と。紀元前の人間がタイムマシンにでも乗って時空を超えて西暦元年を知ったのだろうか。こういう場面では実に愉快な冗談ではあるが、やはりセールスとなるとこれくらい荒唐無稽、無邪気な気持ちが必要なのかも・・・しかし、強引かつ狡猾な詐欺師の暗躍する昨今、余裕を持っているようなふりをしていると痛い目に合うかもしれない~。

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milkman

2021年01月29日 15時49分39秒 | 日記

揶揄するつもりはなく、このところ頻繁に話題になっている電気自動車(EV)から、1980年ころロンドンなら大抵のところを走っていた(移動していた、と言うほうが正しい)、白衣のような制服を着た牛乳配達人、ミルクマンのことを連想した。日本でも乳業会社が玄関の横に置いてある小さな木箱の中に牛乳瓶を配達するサービスがあったと思うが、ロンドン南部、ウインブルドンの近くでも早朝、電気で動く小さな荷台付きの車が各家庭に牛乳瓶を配達するサービスがあった。

早朝の配達であり、住民の眠りを妨げないように音の静かな電気自動車(ゴルフ場の電動カートの少し大きなもの)が使われていた。当時、頻繁に早朝から仕事をすることがあり、まだ暗い中で書類を読んでいると、何か舟でも動いているような独特の音がして家の前で停まる。それがミルクマンの車の音だった。多分今では牛乳はスーパーでプラスチック製の瓶に入ったものを買うのが一般的なっており、新鮮な牛乳を毎朝配達してもらうというミルクマンも廃れてしまっただろう。

新しい家に引っ越すと当然のようにミルクマンがミルクをもって訪れて来る。断らなければ頼んだものとして毎日置いていくようになり、週末にでもいるころを見計らって1週間分かまとめて請求に来るといった具合だった。それでクリスマス時期になるとチップを上乗せして少し大目に払う、と言うのが習慣。一方、ミルクマンの方からは、年末には家計簿をプレゼントしてくれたと思う。ミルクマンとは言うもの、車には牛乳だけでなくパンや最低限の果物等いくつかの食料品もたずさえていて、もし何か食料を買い忘れた時には、そこで用が済むということもあった。

昔ながらの重たいバッテリーでゆっくりと動いていたミルクマンの配達車。モーターの唸るような独特の音は今ではあまり聞かない。その代わり、1年ほど前ロンドンに行った時、特に目についたのがアメリカの電気自動車メーカー、テスラ社の電気自動車だった。すぐにそれと判る大柄な車体と近未来的なスマートなデザインのテスラ車は都心では頻繁に目にすることが出来た。日本では考えられないような普及ぶり、かなり高価なはずなのに相当な台数走っていたから、多分ロンドンの富裕層では今やEVに乗ることが流行のひとつにでもなっているのだろう。原子力発電の多いイギリスでは電気自動車は二酸化炭素排出には効果があることは確かだ。火力発電が殆どの日本が、総体としてはEVでも二酸化炭素の排出量は少なくならないのに対して。

日本でもそうだが、最近ではニューヨークをはじめ世界中のタクシーがハイブリット車に代わってきており、そのうちにEV車に切り替わる日もそう遠くはないだろう。今思うとミルクマンのあの配達車は未来のEV車を予告していたのかもしれない。一方で自分は、いまだガソリン車に乗って(運転して)いる。このガソリン車もいずれは歴史の遺物として消え去ってゆくのだろうか。ただそれまでにはあと数十年かかりそうだ。外出を自粛している現在、わがガソリン車は殆ど動くことはなく、その99%の時間を車庫の中で過ごしているから既に置物になってしまったようなところもある・・・。

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万年筆

2021年01月28日 16時05分30秒 | 日記

いつの頃からか、何かものを書こうとするときに万年筆を握ることが少なくなった。必要があればパソコンに向かって、自分の場合にはマイクロソフトのワードを開くことになる。手書きと違っていつでも書き直しが出来るし、書き損じで紙を無駄にするということもない。慣れて来ると手書きよりもキーボードを打つ方が速いくらいになった。それに、万年筆を握る時よりもキーボードに向かっている時の方が、いろいろな考えが次々に頭に浮かんでくるように思う。書きかけ途中の文章はそのまま残るし、あとからいくらでも文章を追加できるから、書いている文章が膨らんでゆくというか、発想が広がってゆくような気もする。出来上がった文章を見ると我ながらどことなく表現力が豊かになったような錯覚さえ覚える有様。こういった自己陶酔は実に危険だ。自己満足の落とし穴にはまり込んでいくようでもある!!。

そういうことで、万年筆やボールペンを使う数少ない機会は、たとえば何かに自分の名前を書いたり、署名(サイン)したりしなければならない時くらいになって来た。

しかし、いままでの人生を振り返るとずいぶんと万年筆には世話になってきたはずだ。初めて万年筆を手にしたのは中学校に入ったころだったろうか。そろそろ鉛筆だけでなく万年筆も持って、と言う親の考えだったのだろう。鉛筆よりは一段太い万年筆を握っていたら、何となく大人に一歩近づいたような気分になったものだ。学生時代には気に入ったものを何本か買ったが、それらはどこかに紛れ込んでしまったり忘れてきたりしてよく紛失したように思う。なにしろ、それほど大きなものではないから、ついうっかりポケットにしまい忘れたり、どこかに置き忘れたりしやすい。

先日手書きで自分の名前を書かなければいけないことがあり、実に久しぶりに本棚の引き出しにしまってある万年筆をとりだしてみたら、案の定、インクが出ない。見るとカートリッジは干からびている。インク壺のインクは変色している。これでは使い物にならないし、実際には殆ど使わないにしてもいつでも使えるような状態にしておかないと気分が落ち着かない。

調べるとMデパートにモンブランの代理店があるというので、インクを買うついでに長らく休眠していた万年筆たちを持って出かけた。応対に出て来た若い女性の店員が手際よくペン先を水洗いしてから、インクを充填してくれた。ボールペンの替え芯も。ペン先が生き返ったようになったので走り書きしてみたらかつて使っていた時の滑らかな書き味が手に戻ってきた。

不揃いな手書きの字も悪くない。漢字転換は辞書を見ながらになる。それでも万年筆にはキーボードにはない、楽しみや刺激があるようだ。これからは時々は二刀流で行こう・・・。

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セルビアの地酒

2021年01月27日 17時11分37秒 | 日記

海外在住の友人から、共通の知人についての消息を知らないか、と言う照会を受けたというのは先日ここに書いた。共通の知人と言うのは、年齢的には自分よりかなり上の人達であり、すでに第一線を引退している人ばかり。今、いろいろとつてを辿って消息を知ろうとしている。こういうきっかけでもないとなかなか腰を上げないもの。これまでのところ半分くらいの消息が分かった(名誉職的な今の地位、など)。しかし、うち一人は昨年初めに既に他界していることが判明。90歳を超えていたというから、大変な高齢だった。他の人のことはさておき、まずそのことだけを件の友人に連絡。

折り返し返事が来て、大変驚いた、しかし、5年ほど前に訪日した際、多摩湖のほとりにある彼の家に挨拶に伺ったことがる。その時も体調がすぐれないということで、ソファに横になりながらも随分長い時間話をした。悲しい話だが、まだ存命のうちに会えたのがせめてもの救いだ、と。

この方は戦後間もないころから海外との仕事をしてきて、昭和30年代にはロンドンにもしばらく駐在していたと聞いていた。自分も3年ほど前、ある人の著作に彼の名前を出すことについて、了解を取るために頼まれて彼に電話をしたことがあった。先方はこちらの名前を名乗ったら微かに記憶にあったようだった。しばらくの沈黙の後に思い出したようで、自分は高齢でもあり、特段異存はないから君にお任せする、と言う話になって恐縮した。高齢で体調もあまり良くないので、といつになく遠慮気味だったがはっきりした受け答えだったので、そんなに早く亡くなるとは思ってもいなかった。

彼は大先輩だったから、在職していた当時は簡単に話が出来るような関係ではなかった。しかし、退職してずいぶん時間が経つとそういった遠慮も次第になくなって割と気軽に話が出来るようになった。彼は革命や内戦などいわゆる複雑な政治情勢の国に強い人物として知られ、一度、当時はまだ分裂していなかったユーゴスラビアに出張する時に話を聞きに行ったことがあった。政治情勢や人脈などの話だったと思うが、その時の彼の表情などは思い出せない。

その後何度かユーゴスラビアに出張した。最後の頃は内戦下で社会が混乱しており、ベオグラードでは一流と言われていたホテルでも頻繁に停電があった。その薄暗い売店で買った、色鮮やかな陶器に入った地酒。45度とあるのはアルコール度だろうか。飲まずにそのまま本棚の中で眠っていた。ユーゴスラビアはもうない。それにまつわる人もいなくなってしまった。まだ調べなければならない人が何人か残っている。皆元気で無事でいてくれたら、と思う。亡くなっていた、というような連絡をするのは出来れば避けたい。

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