回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

野獣

2021年07月27日 16時17分46秒 | 日記

連日、オリンピックでは熱戦が繰り広げられている。どんな競技であれ、真摯に試合に取り組む選手の姿には感動させられる。今回、無観客ということで、放送されている画面が競技(と選手)に集約されているのは個人的には好感が持てる。ほかのことに煩わされることなく競技に集中できるのは、選手もTV 越しに見ている自分も同じだと思う。

勝敗が決したときの気持ち、特にそれが敗者の場合には喉の奥が苦しくなるような、こみ上げてくるものがあるだろう。それは選手もそして選手にインタビューするレポーターもきっと同じだ。

26日、女子柔道57キロ級で銅メダルを獲得した芳田司に、同じ階級でロンドンオリンピックの金メダリスト、松本薫がインタビューした時に、松本が声に詰まって涙を流した場面はまさにそのことを物語っている。インタビューの多くに、選手の気持ちよりも何かを聞き出そうとする卑しさを感じるのに対して松本の言葉は彼女の気持ちそのものをまったく隠そうとしていなかった。

2012年のロンドンオリンピックの際にはロンドンにいたので、それに割合簡単にチケットが入手できたので幾つもの競技を観戦した。その中の一つに2012年7月30日、松本薫が金メダルを獲った瞬間に立ち会ったものがある。入場してきたときの、すべての神経を集中した精悍な、闘争心むき出しの彼女の姿は周囲を圧倒していた。しかし、試合が終わって金メダルを首から下げた彼女の表情は試合前のあの野獣のような表情から、別人のように柔和なものに変わっていた。そしてインタビューする彼女はいまや、オリンピックの敗者の気持ちも分かる、円熟した人間になっていた。

開会式におけるIOC 会長バッハの、欺瞞と傲慢、そして自己陶酔に満ちた極端に冗長なスピーチの不快な記憶が洗い流されていくようだった。

ピンぼけで残念だがロンドンオリンピックでの松本薫の写真をいくつか。

競技場に入場してきた松本

試合後の表彰式で

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道路地図を読む

2021年07月26日 18時52分47秒 | 日記

ずいぶん昔の話になるが、アメリカ人(国籍が、という意味で)の友人から聞いた話で、男の子が10歳くらいになったら、自動車の助手席に乗せて、道路地図を見ながらのナビゲートをさせる。一人前の男になるためのいわば通過儀礼というのか、最低限の資格のようなもので、地図を読んで、同時に自分の居場所を周囲の目標物などから判断して進路を的確に指示できるというのは男が生きてゆくために必要なものだからなのだ、というのがあった。

男の役割、などというとジェンダー平等が叫ばれている現代ではほとんど禁句のようなものでこの友人のようなことを不用意に言ったら多分物議を醸すだろう、何も道路地図を読むというのは男に限らないし、その必要性には男女の差はない。

ところが最近では、道路地図を読むということ自体がほとんどなくなってしまったように思う。車に乗ればカーナビゲーションシステムがついていて、行先を入れておけば画面と音声でどこでどう曲がるかを丁寧に指示してくれる。万一それでも曲がり角を行き過ぎても(助手席の人間とは違って)愚痴一つ言わずに新しい指示を快く?出してくれる。また、車に乗っていなくてもスマホには地図アプリがあるからいつでも自分がどこにいるかすぐにわかる。待ち合わせなどで行き違うことももう無い。ジェンダー平等に気を遣うことも。

そのせいで場所や地図を記憶しておく必要はなくなってしまった。今の子供たちは、大きくてかさばる地図など持つことなどなくなっているのだろう。

しかし、もしカーナビゲーションがなかったり、スマホの電池が切れたりしたら、自分がどこにいるのか分からなくなるし、目的地に着くこともできなくなってしまう。また、他人に場所を説明することもできなくなってしまうのではないかと、長い間紙の道路地図に頼ってきた自分はふと不安になる。そのため今日も万一の時のために道路地図を車に載せているのだが、それは少し心配し過ぎる、というものか・・・

 

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紫陽花

2021年07月19日 12時44分19秒 | 日記

過去のブログを見ていたら、毎年この時期に紫陽花の花の写真を掲載している。ということは我が家の紫陽花に関する限り、結局はほぼ同じころに花を咲かせていることになる。寒ければ寒いように、また暑つければ暑いように調節しているみたいだ。10本ほどあるこの紫陽花、いつ頃植えられたものかは判らないが、たぶん20年くらいは経っているのではないかと思う。秋に刈り込まれた時には小さくなっているのに、今では敷石の上までおおきくなってはみ出ている。毎年繰り返されている紫陽花の成長、そのエネルギーは大変なものだろうナ。

 

 

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数字

2021年07月16日 16時57分10秒 | 日記

今日、久しぶりに車を運転していたら、隣の車線を見慣れない形の車が追い越していった。自分の運転能力も判ってきているので、いまでは追い越されてもどうということはないが、初めて見るような車だったので、注意して見るとへの字状の楔形を二つ重ねた、ドゥブル・シュヴロン (double chevron)と言われるシトロエンのエンブレム。右後ろにC3。

フランス車というとドイツ車のような堅牢さや押し出しの強い豪華さはないが、どことなくお洒落に見えるデザインが特徴(ただし、形や技術に凝りすぎて故障がち、と敬遠される向きもあった)。シトロエンはその代表格で、機能性や信頼性ばかりを追い求めるのは野暮というしかななく、この割と小振りなC3にもしっかりとその片鱗が窺えた。

そして赤信号で斜め前に止まったこの車のナンバープレートを見ると「714」。7月14日は革命記念日、 Fête nationale〔国民祭典〕。マスクをしていてよくは見えなかったがサングラスをかけた女性(と思われる)運転手。もし彼女がこの車の持ち主なら、そのフランス愛は半端ない。

20年ほど前から日本でも自動車のナンバープレートを希望の数字にすることが出来る(もちろん、対象外の数字もある)ようになった。大きな駐車場に止めた時など、自分の車を探すのには都合がいい。無作為に与えられた番号を記憶するのは必ずしも容易ではないから。それに、例えば空港に家族を迎えに行く時など、ナンバープレートの数字を共有していれば見間違いや見逃しもないだろう。

初めてロンドンに赴任した40年ほど前、イギリスでは自動車のナンバープレートの番号が売買されているのを知って新鮮に感じたものだ。さすがに何でも売り買いする国だけのことはある、と。イギリスの場合、数字の前後に今ではアルファベットが配されるのだが、昔の登録番号にはそうでないものもある。一般には数が少ないのと、その組み合わせで意味が出るようになるものが高い。たとえば、ロールスロイスに「RR1]などというナンバープレートが付いていたりするとこれは究極のナンバーになる。もちろん一般の人はほとんどが、陸運事務所から無作為に与えられる番号で頓着していない。こういうものにこだわってカネを払うのは金持ちの証拠、とも言えるだろう。

希望番号を手に入れるための数千円の費用が高い、無駄だと思うかどうかは考え次第だろうが、自分の周囲では、車を買う時に(多分デイーラーに勧められるのか)誕生日や結婚記念日といった忘れられない(忘れてはいけない?)日付を車のナンバーにしているのも結構いる。そういう話を聞かされた後で走っている車のナンバーを見ると、3桁の番号で、下二桁が31以内の場合、あれはきっと何かの記念日に違いない、と思うようになってきた。

一度結婚記念日を忘れて細君と大いにもめたという友人がその日を車のナンバーにしたのは、過ちを繰り返さないための賢い対処法だと言える。

 

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蜘蛛の糸

2021年07月15日 11時23分01秒 | 日記

暑くならないうちに一回りしてみようかと思って今朝早く庭にでてみると、栗の木の枝の下、3メートルくらいの高さの所に何かがぶら下がっているのが見えた。落ち葉か何かかと思って近づいてみると、蜘蛛の巣に絡み取られた小さな雀がさかさまになってもがいている。周りからは雀のさえずりがいつもより騒がしい。栗の枝の一つから車庫の方にめぐらされた蜘蛛の巣に引っかかっていたのだ。

大急ぎで車庫からちょうどいい長さの園芸用の支柱を持ってきて蜘蛛の巣を払ってみると、その雀が一旦アジサイの葉をクッションにして地面に落下、飛び立とうとするが、細い黄色い脚には蜘蛛の糸が何重にも絡みつき粘着していて、20センチほど動いた後、うずくまってしまった。大きく口をあけて、そこから赤みがかったのどまでが見える。そのうち、口をしっかり閉じてしまった。黒い点のように光る目は開いていてこちらを見ている。

どの程度の間、空中でもがいていたのか分からず、あるいはもがいているうちに骨折でもしたのかもしれないが、すぐには動けそうにもなかったので家の中にいったん戻り、脚が細いこともあるので、からんでいる蜘蛛の糸を取り除くにはピンセットしかないと思い百均で買ったピンセットを持って戻ってみると相変わらず大きく口を開けてうずくまっている。用心のため手袋をしてさっとその雀を手で包むように捕まえてみるとかすかに鼓動のようなものを感じる。

見ると黄色い針金のように細い脚にクモの糸が何重にも、ねばりつくように巻き付いている。脚を傷めないように慎重に蜘蛛の糸を外してやったが両脚ということで結構な時間がかかってしまった。やっと取り除いて、芝生の上にそっとおいたが、身動きしない。相変わらず口を開けたり閉じたりしている。口を閉じるといわゆるへの字、にみえる。

きっと体力を消耗したのだろうと思い、台所にあったプラスチック容器のふたに水をいれて雀の前に置いてみた。米粒なら食べるかもしれないとも思ったがまずは水で様子をみること。目の前においても自分からは飲もうとはしないので、口を開けた時を見計らって水を流し込んでみた、たまたま、口が大きく開いたときに数滴の水を飲んだように思う。そのあと、何度か喉のあたりが動いている。もう一度水を与えようとしたが、少し元気が出たのか羽をばたつかせて30センチほど移動。脚に加えて羽の方にもダメージがあったり、ひょっとするともう助からないのかも、しかし、この庭には猫や犬などの天敵が入ってくることも無いので、とりあえずぶどう棚や柿の木の様子を見ようとその場所を離れた。

10分くらいだろうか、戻ってみるとその雀の姿が見えない。何か争ったような形跡、例えば羽の一部が落ちているようなこともない。念のためその辺りの物陰になるようなところ見てみたが姿が見えない。水差しにした蓋がぽつんと残っているだけだ。きっと少し元気を取り戻して飛んで行ったに違いない・・・

朝食をとっていると窓の外から雀の鳴き声がにぎやかに聞こえてきた。あの中にいたのだろうか。

この時期、朝庭に出て蜘蛛の巣に引っ掛かることもたまにある。人間だって顔にクモの糸が当たったら不快なことこの上ない。ただ鳥が蜘蛛の巣に引っかかっているのを見るのは珍しい。あの雀は、小さいのに加えて逃げる間もなく足に絡みついてしまったのであんなことになったのだろうか。

昔小さかった頃、母親から、朝の蜘蛛を殺してはいけない、といわれた。それもあって朝の蜘蛛はいい蜘蛛なのだという思い込みがある。今朝、この巣を張った蜘蛛はもがいていた雀を見ていたのか、自分の巣が殺生をすることになることをどう思っていたのか。幸い、雀は助けられ、(たぶん)再び飛ぶことが出来るようになったからよかったものの、自分が見つけなければ・・・

ささやかな今朝の出来事。

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