今日午後、所用で新千歳空港。コロナ以前なら夏休みを楽しむ学生と外国人客で溢れかえる空港が、今やまるで廃墟のよう。これが今の日本の一つの象徴?
JR線乗り場に向かい人もいない。
人気のない出発カウンター
静かな手荷物検査場。
駐車場も空ばかり
手荷物検査場、その2
到着口。歓迎、なのに人がいない。
国内線、キャンセルの便が目立って
無言のチェックイン機。近寄れば合成音声が出迎えてくれる
わびしい駐車場を照らすまぶしい太陽。
空港前の道路にも車の影は見当たらない。
今日午後、所用で新千歳空港。コロナ以前なら夏休みを楽しむ学生と外国人客で溢れかえる空港が、今やまるで廃墟のよう。これが今の日本の一つの象徴?
JR線乗り場に向かい人もいない。
人気のない出発カウンター
静かな手荷物検査場。
駐車場も空ばかり
手荷物検査場、その2
到着口。歓迎、なのに人がいない。
国内線、キャンセルの便が目立って
無言のチェックイン機。近寄れば合成音声が出迎えてくれる
わびしい駐車場を照らすまぶしい太陽。
空港前の道路にも車の影は見当たらない。
コロナ禍のしばらく前、高校の同期生が還暦を迎えるというので、盛大な同期会が催されたことがある。今日、本棚を整理していたらこの同期会の記念誌が偶然出てきたので、つい座り込んで見入ってしまった。当時の一学年は10クラス、一クラス50人だったので、同期生は500人。共学だったが、男女比は約2対1だった。この同期会に出席したのは多分4割くらい。
幹事が母校から名簿を貰ってきたのだろう、その時の記念誌には全員の名前がクラス毎にアイウエオ順に書かれている。この高校は一年から二年に進級するときにクラス替えがあり、二年と三年の間にはクラス替えがなかった。一年の時に親しくなった友人のうち何人かはまた一緒になった。そのうちの一人が歯科医の息子で、彼自身も当然のように歯学部に進学し、長らく大学で教鞭をとったあと今では都心に立派な個人病院を経営しているのがいる。
一度、従姉が舌に違和感を感じて医者の紹介を頼まれたことがあり、彼に電話したところ、普通なら数週間待たされるところを直ちに診療してくれたことがあった。彼は口腔外科の権威でもある。
各クラスに3-4人、「ご逝去」という特記がある。60歳までで一割弱のクラスメートが他界しているのかと思うと、普段は生きているのが当たり前だと思っているのが、まるで足元の土が少し崩れているような感じを受ける。その中にはすぐに顔を思い出すことのできるのが何人かいた。そして二年生の時に米国に留学し、大学卒業して官僚となり、その後選挙に出て市会議員になった女性も含まれていた。笑っている顔など見たこともない、向上心の強い人だったが、折角そこまで行っても早死にしたら何にもならないではないかと思う。彼女のほか、結婚した女生徒の欄には高校時代の旧姓が括弧書きされている。これはジェンダー平等の観点からは問題のあるところだろう。
高校は大学に比べると通過点のようなところに思えて、印象が薄いところもあったが、今思うと実にバラエティーに富んだところだった。信じられないくらい頭の良かったのもいたし、その後の進路だって千差万別。自分の中ではこの高校を少し過小評価していたところがあったように思う。
還暦を迎えるころは、組織で働いていると多くの場合、第一線から退くころに当たる。その意味では人生の大きな区切りの時期に当たると言えるだろう。記念誌に掲載されていた高校の卒業式の時の集合写真の輝くような表情にくらべると、同期会の最後に撮った集合写真には、どこか寂しさが漂っている気がしてならない。
予告通りに、カブール空港付近で大規模な自爆テロ発生。可哀そうに急遽派遣された米兵や、国を捨てて生き延びようとするアフガニスタン人の多くが犠牲者になった。
二回目に駐在していた1990年代のロンドンは、アイルランドの過激組織IRA(アイルランド共和軍)による爆弾テロが頻繁に起きていた。実際に起きた事件もさることながら、虚実入り乱れた爆弾予告は日常茶飯事。実際に巻き込まれて重傷を負った知り合いもいる。当時働いていた金融街シティもその標的にされ、爆発によって職場から至近距離にあった高層ビル一棟が壊滅的な損傷を受けたことも(1992年4月10日)。そのビルには日系の金融機関も入居していた。
今でもそうかもしれないが、当時のロンドンのオフィスの窓は爆風を受けた時に可能な限りその衝撃を和らげるために内側に押し込まれるような構造になっていた。そのため、窓際は危険なので、デスクは窓から一定の距離をあけて設置されていた。この、自動車を使った爆発(IRAが好んだ方式)でも、自分が働いていたビルでも窓ガラスは壊れなかったものの内側にへこんでいたくらい強力。しかし、その後の自爆テロではさらに多くの犠牲者が出ているから、今になって思えばまだ小規模だったと言えるかもしれない。それに、IRA の場合、自爆テロのようなものはなかったように思う。
爆発が起きた瞬間、一時軍隊に在籍していたという同僚が、これは間違いなく爆弾だ、と言ったのを覚えている。自分にはそれがガス爆発なのか、あるいは何かが衝突したものなのかは分からなかったが、彼によれば爆弾による爆風あるいは衝撃というのは他とは違う一種独特なものだと。
警察による非常線が張られ、一時は止まっていた地下鉄が動き出すまでの埃の舞う中心街は、その9年後のニューヨーク同時多発テロの予告編だったように思える。
テロはその時は衝撃が大きいが、次のテロが発生すればすぐに忘れ去られてしまう。日本では実感が湧かないが世界はいまだにテロの脅威の下にある。
英国インデペンデント紙によれば、カブール空港でテロリストによる襲撃が数時間以内に迫っている、という英国国防省高官の発言。世界中がアフガニスタンから自国民および協力者の避難作戦を続けている中、もし、本当に大規模なテロが発生したら大混乱になるだろう。それがテロリストの狙い。恐ろしい世の中になった・・・。
オリンピックの熱気が去ったと思っていたらパラリンピックが始まって再び国立競技場や水泳などの競技会場が映し出されてきた。それぞれに障がいをもつアスリートがこれから繰り広げる熱戦に期待したいと思う。観戦を除いて自分のオリンピックとの直接のかかわりと言えば1972年の札幌冬季オリンピック。時間に余裕のあった学生時代だったので、友人に誘われてボランティアとして(しかし、少し日当のようなものももらったからアルバイト、と言った方が正しいのかもしれない)主に報道関係者のために日本語―英語の通訳をしたこと。思えば当時のオリンピックにはアマチュア主義があって、おカネのからむ職業的なプロの選手は厳に排除されていた。だが当時のソ連やそのほかの共産主義国は国が丸抱えで選手の強化をしていたから、この原則は実際には二重基準になっていた。したがって、こういった極端なアマチュア主義?はその時のIOC 会長だったアメリカ人の大金持ちアベリー・ブランデージのいわば個人的な老いの一徹、といえるものだった。
その一例としてこのオリンピックでも、オーストリアのアルペン選手、カール・シュランツがプロだとみなされてブランデージの鶴の一声!で参加資格をはく奪され、大会直前になって選手村から追放された事件はいまでも記憶に残っている。
と同時に記憶に残っているもののひとつがコカ・コーラ。通訳として派遣されていた選手村や競技会場にはコカ・コーラが無料でいくらでも飲むことができた。スポンサーとして大盤振る舞いしたのだろう。通訳の仕事と言ってもそう忙しいものではなく、必要に応じて指定された場所に行けばいいわけでそれまでは控室のようなところで待機していた。声がかかるまでおなじボランティアの連中と雑談して時間を潰すのだが、その時にはつい無料のコカ・コーラを飲んでしまう。2週間ほどの期間だったと思うが、毎日、大量のコカ・コーラを飲んだ。そしてこのオリンピックも終了。当然ながらただのコカ・コーラを飲むことは出来なくなった。
そうすると何となくコカ・コーラを飲みたくなる、一種の中毒症状のようなものを感じた。しかし、そうそうコカ・コーラを買って飲むこともできないから、しばらくの間は飲みたい気持ちをぐっと我慢しなければいけなかった。もっともそのうちに、中毒症状のようなものはなくなっていたがー。
書棚の奥では昔からコカ・コーラの500ミリリットルのガラス製の空瓶が埃を被っている。この瓶は1972年頃に販売されていたということだから、その当時買ったものだろう。今ではコカ・コーラガラス瓶は姿を消していて、全部ペットボトルになっている。ガラス瓶は壊れやすいうえに何より重たい。しかし、49年前はこういったガラス瓶が普通だった。ただ、どうしてこんな空瓶を取っておいたのか、ひょっとしたらそんな札幌オリンピックでの個人的な記念のつもりだったのかも。