今朝起きて庭に出てみると梅の葉が縮れたようになっていた。また、本来なら青々としている葉が少し赤みを帯びている。よく見ると、小さなアブラムシのようなものが・・・こうなると黙っていられない性格なので、早速車庫から殺虫剤を取り出して散布した。一応、帽子、手袋それにマスクも装着して。あたりに殺虫剤のにおいが少し残ったが、今朝は風もなく、広く飛散する恐れもない。噴霧器からの霧が朝陽にキラキラと輝いていた。これで虫が退治されるといいのだが、今日も暑くなりそうなので、害虫の大量発生が懸念される。まるで小さなパンデミック発生のようだ。こんなに短い間にどうして、繁殖するのだろうと思うくらいの生命力。
そのうちに、朝陽が力を増してきた。早朝の心地よい冷気が消え去って、また暑い一日を予感させる。最近は気象予報の精度が上がってきて、あまりはずれることがない。従って、予感というほどのものではなく、ネットで気象情報を見れば一時間ごとの気温の変化がわかる。天気一つとっても予感といった、主観的なものが入り込む余地は無くなっている。予感というのは感覚の問題で理屈のつくものではない。たとえば、経済については予想とはいうが予感とはいわない。経済予感等と言ったら、なんとなく霊的なものが感じられて胡散臭い。予想の場合には何らかの根拠があるはずだ。あるいは理由があってそれ以外には考えられないだろうということ。だから予想と言っておきながらその根拠を示すことが出来なければ単なる無責任な言いっぱなし、ということになる。根拠を示さずに結果だけ言われても意味はない。
一方、本来、予想と言われているものに、実際は直観や、理屈のないひらめきに頼っているものもある。株式や為替といった相場予想はち密な理論や情報分析に基づいているように思われるが最終的にはひらめき、予感のようなもので、市場が作られているのではないかと思われ、一見もっともな理由が述べられているが、それも結果から理由を後付けしていることがよくある。だから、相場に深入りしてしまうととだんだん神がかりになったりする。かつてノルウェーの知人に、為替や金利操作を担当している人がいた。何度か彼のオフィスに行ったことがあるがいつも窓を閉め切って暗い中、わずかな光で仕事をしていた。こうして集中力を高めているんだ、と。最初はびっくり、一瞬ぞっとしたものだがその気持ちもわからないではない。しばらくその枢要な地位にあったから、そんな職場環境がそれなりに効果があったのかもしれない。なお、親しくなってから、冬に自宅の誕生日パーティによばれたことがある。自宅の玄関に通じる小道には、雪に埋もれそうにローソクが灯されていて、どんな家なのか、気味が悪い家だと嫌だな、などと思っていたが、予想(あるいは悪い予感)ははずれて、いたって普通の家だったので胸をなでおろした。仕事と私生活をきっちりと分けていたのか。また、昔、イランがタイムマシンを開発して、未来に旅することが出来ると発表したことがあった。もしそうなら、株式や為替、原油先物でいくらでも儲けることが出来るはずだったが、この話は当然ながらいつの間にか消えてしまった。本当にタイムマシンが出来たら予感や予想と言った言葉は死語になるのだろう。
何かいいことが起きそうな予感がする、悪い予感がする、嫌な予感がする、という。予感は、説明できないだけに神秘的だし、魅力的だ。だから誰も人の予感に反論しようとはしない。せいぜい、あまり気にするなよ、と言えるくらいだ。他人の目でものを見ることはできない。自分の目でしか物は見られないから。あたかも他人の目で見たかの如く言うのは傲慢である。他人の目から見たらどう見えるか言われても、その他人に成り代わることはできない。同じ花でも、見るひとの気持ち、たとえば得意の絶頂にあるのかあるいは失意のどん底にあるのか、によっていかようにも違って見えてくるのと同じだ。