塩野七生の「ギリシャ人の物語Ⅰ」を読んでいるのだが、ギリシャがペルシャとの2度にわたる戦役を勝ち抜いた後に訪れた平和について語るくだりにこの言葉が出てくる。塩野七生はこの言葉を引用するのに「下品な言い方を許してもらえれば」とわざわざ断っている。それほどにこの言葉は時と場面を選んで使わなければならないもので、軽々に口にするべきものではない。この本の中では、平和を保つための指導者の努力を、(十分な考慮もなしに)地位や権力にしがみつきたかったからであると断ずるのは「下司の勘繰り」にあたるとしている。そして、「下司の勘繰りくらい、歴史に親しむのにふさわしくない心の持ちようもないと思っている」とも。
しかしながら、先月の歌謡歌手と女性タレントとの密会を、歌謡グループ名から引用して、いまや「下司」が「ゲス」とカタカナとなって、連日新聞やマスコミに溢れかえっている。さらには国会議員と女性モデルとの密会についても件の国会議員に対してこの名が冠されている。
言葉に対して最も注意深くなければならない報道機関がこのような言葉を無責任に氾濫させているのは一体どういうわけなのか。そしていつか、「ゲス」とは不倫に走る人を指す言葉に変容するのかもしれない。「下司(ゲス)」すなわち、心の卑しい者、が不倫に走る、というのでは「失楽園」でひとつの不倫を描き切った(社会現象にまでなった)、泉下の渡辺淳一も嘆いているかも。
事実婚が広がっているフランスでは、ホランド大統領がパートナーとの同居中に女優と密会して話題になったことがある。しかしこのことをもって誰も大統領の辞職を求めたりはしなかった(もちろん、彼の政治家としての能力から辞職を求める声は大きかったが)。いつか日本でも事実婚が一般化したら、「ゲス」はいなくなるのだろうか?