30年ほど前にある案件の調印式で使ったクロスの細身の黒いボールペン。何回も替え芯を買って使い続けてきたが、先週金曜日に出かけた時にどこかで落としてしまった。家に戻って、手帳に書き込もうとしたらどうしても見つからない。そういえば、途中立ち寄った銀行で、カウンターから離れるときに何か物が落ちたような気がして足元を見たのだが、気のせいかあるいは自分にはかかわりのないところで何かが落ちたのか、くらいに思ってよく見もせずに立ち去ったことがあった。しかし、それも確かなものではない。
肌身離さず、というほどでもないが、何かを手書きする時にはいつもこのボールペンを使っていた。艶消しの胴体の所が少し光っていたくらい使い込んでいて、長い間当たり前のように手許にあったものを落とすとは、大げさな言い方でボールペンに命でも宿っていたかのような喪失感を味わった。今頃はゴミと一緒にどこかに捨てられたのか、あるいは誰かが拾ってどこかに届けてくれているのか・・・。
仕方ないので机の中を探っていたら同じクロスの、今度は銀色のボールペンが出てきた。2010年にデルタ航空と統合して姿を消したノースウエスト航空のロゴの入ったもの。20-30年前のいつか、日本とも縁の深いこの航空会社を利用したときに記念品でもらったものだろうか。楕円から飛び出したNの文字の赤い塗りが剥げてしまっている。薄情だと思われるかもしれないが、これからはこれを使うことにしよう。
その夜、かつて日本に駐在していたロンドンの古い友人からメールが来た。彼が日本にいた1987年頃に買った東芝製のフードプロセッサーのプラスチック製のボウルが破損した。どこかで部品を売っていないか?というリクエスト。調べてみたら、東芝は5年ほど前に白物家電事業を中国企業に売り払っていることが判った。ただ東芝のブランドはそのままで、東芝ライフスタイルという会社名になっている。
早速サービスセンターに電話で照会してみたが、そんな古い機種は自分たちのところに何の情報もない、と。フードプロセッサー自体もう作っていないというから関心もないようだ。ネットでこの型番を調べたら、骨董品としてアメリカで売られていたのが判ったが、とても買えるような代物ではない。それに部品だけ、という彼の希望にも沿わない。一方で、そんなに古いものを使っていて安全なのかという心配も出てきた。モーターやそのほかの部品も古くて発火や破裂の危険もあるのではないか。待たせても申し訳ないので、残念ながら部品はなかった、と伝えたら、新しいものに買い替えるから心配しないでくれという返事が来た。
彼は相当な資産家なのに、決して無駄なことはしない。どんなものでも大事に使っている。多分奥方も同じように物を大切にする人なのだと思う。
そんな彼に不注意で長い間使っていたボールペンを無くした、などと言ったら、ものを粗末にする人だ、と思われるに違いない。ただ、持ち歩いて落とすリスクの高いペンと、台所に鎮座しているフードプロセッサーを比較するのもおかしい。