子供のころ、タクシーに乗るというのは特別な事のように思えた。親の車かバス、汽車が交通手段であり、運転手がいて後ろの座席に座る、と言うのは特に子供には贅沢と言うか、分不相応と言う風に感じられた。そのうちに、タクシーの位置づけは自分の中で変わってきて(大人になるのだから当たり前だが)、だんだんと身近なものになってきた。いささか派手な色には抵抗もあるが、今のように庶民の足になってきたところではそれがむしろふさわしいのかもしれない。最近は大手食品スーパーにタクシーで乗り付ける年配の人も良く見かけるくらいだから、今や特別な乗り物ではなく、だれでも利用できる交通手段になってきたのだろう。タクシーと言う乗り物も成熟した、と言えるかもしれない。
タクシーの社会的地位(仮にそういうものがあっての話)で言えば、自分の知る限り最も高いのはロンドンのタクシー(ブラックキャブ)だろうか。色と車体がほぼ統一され、大体いつもきれいに磨き上げられている。そのせいなのか、フラッシュを浴びながらこのタクシーから降りてくる大物政治家や芸能人の姿をTVなどでよく見かける。むしろ、場合によっては、この黒いタクシーで乗り付けるというのがファッショナブルなことで、決して引け目を感じることはない。日本の政治家や財界人がタクシーで乗り付けるというのはあまり見かけない、やはり黒塗りのハイヤーか社用車のほうが見栄を張れるということなのだろう。ロンドンの場合、あの、黒いタクシーは台数も限られかつその重厚な外見がなんとなく品格を感じさせるのか。一般的にいうタクシーとしての役割はミニキャブという、普通の車による運送業者が担っていて、ブラックキャブはいわばその中でも選ばれた存在と言うこともできる。もちろん、普段は町中を流しているから、空車なら誰でも、いつでもつ乗ることが出来るのだが、何かあればこのブラックキャブでどこへでも堂々とのりつけることができるのが大変便利なところだ。
ロンドンに勤務していた時分、特に最初にロンドンンに赴任した80年代にはよく遅くまで残業していたから頻繁にタクシーで帰宅した。運転手同士の情報網によるのか、夜遅くなると事務所の前に何台か黒のブラックキャブが待ち構えて、こちらの顔を覚えているのだろう、乗り込むと行き先を告げるまでもなく家まで連れて行ってくれた。夜間だから割り増しだしチップも少し弾む気前のいい客だということが知れ渡っていたのかもしれない。幸いなことにブラックキャブで嫌な思いをしたことがなかった。しかし、その後、ロンドンのタクシー運転手もだんだん変わってきて、法外な運賃を請求されたという話を聞くようになったのは残念だ。ただ、今でもほとんどのタクシー運転手はプロ意識とプライドが高く、実直だからあまり心配しなくてよいと思う。そうは言っても、今はコロナの外出規制で商売は上がったりなはずだから、これからどんな変化が起きるかはわからない。
イギリス以外で記憶に残るタクシー運転手に遭遇したのはパリに出張した時、空港からホテルまで乗った時だった。灰色のベレー帽を目深にかぶり、かなり着古した茶色の皮のジャケットを肩にかけ(袖は通さず)、まるで寝そべるように浅くドライバーシートに座った運転手が、ふわふわした乗り心地の、宇宙船のように曲線を生かした、ライトがガラスに覆われていたシトロエンDSで待っていた。低いフランス語で行き先を繰り返しただけで後は無言。その時は凱旋門から放射状に延びる大通の一つにあったホテルに泊まったのだが、途中、この車が軽い接触事故を起こしてしまった。
結構な音がしたが車が大きかったのと速度がそれほどでもなかったので体への衝撃はなかった。路肩に止めて運転手は自分を残してゆっくり車から降り、相手の運転手と二言三言言葉を交わし、相変わらずの無表情な様子で、握手をして車に戻ってくると何もなかったように走り出し、ホテルに届けてくれた。料金を払おうとすると、手を振って受け取らない。事故で遅れてしまったから、とフランス語なまりの英語で言うと、こちらが降りるやいなやすぐに走り去って行った。妙な運転手で、この時起きたことは何か現実離れをしているように思えた。
こういう時、多分イギリスならどちらが悪い、とか、保険がどうとか言う長い話になるのだろうが、お互い興奮することもなく淡々と話をしていた。古い大きなシロエンだったので頑丈にできていたのだろうか。走り去る後姿を見てもへこんだりしたところは見えなかった。多分バンパーの一部が損傷したくらいだったに違いない。この運転手が大人だったのか、あるいは何かあった時の解決の仕方がフランス風なのか、不思議な経験だった。
シトロエンはその近未来的なデザインや先端技術は魅力だったが、故障が多くて大変、と言う話も聞いた。現在では、こういった点は多分改善されたのだろうが、同時にあの個性的な味が失われてしまったようにも思える。それでも静かな、しかし熱狂的なシトロエンファンがいることも事実だ。