回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

枯葉

2023年10月29日 16時56分54秒 | 日記

紅葉の美しい時間は本当に短い。見逃すまいと人気のない夕方の公園を散歩していると風の冷たさが身に沁みるようだ。枯葉の匂いは初冬の匂いか。

Les feuilles mortes

Oh! Je voudrais tant que tu te souviennes

Des jours heureux où nous étions amis.

En ce temps-là la vie était plus belle,

Et le soleil plus brûlant qu’aujourd’hui.

 

Les feuilles mortes se ramassent à la pelle

Tu vois, je n’ai pas oublié

Les feuilles mortes se ramassent à la pelle

Les souvenirs et les regrets aussi.

 

Et le vent du nord les emporte

Dans la nuit froide de l’oubli.

Tu vois, je n’ai pas oublié

La chanson que tu me chantais.

 

C’est une chanson qui nous ressemble.

Toi, tu m’aimais et je t’aimais

Nous vivions tous les deux ensemble,

Toi qui m’aimais, moi qui t’aimais.

 

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陶磁器を見て思う

2023年10月26日 14時54分08秒 | 日記

今日の新聞によれば、政府は生活支援および税収の還元ということで減税および住民税非課税世帯に一定額の給付を行うことを検討しているという。思いつき、バラマキという批判が出ていて国民がこのような政府のやり方を本当に評価しているのかよくわからないが、日本は今や格差社会となり、いわゆる生活困窮層が増加しているのは事実だと思う。たしかにほんの一部の限られた層に富みが偏在しかつその傾向はますます強まっている、というのは世界的にみられる現象だ。

貧困と言っていいのか、東欧諸国の民主化が進んだ1990年代、共産主義から市場経済への移行の時期にそれらの国では多くの生活困窮者が出て、それは街中での治安の悪さや物乞いといった形で表れていた。東欧諸国の中でそれが際立っていたのがチャウシェスク政権により経済の破綻したルーマニアではないかと思う。もともとは肥沃な土地に恵まれ鉱物資源も豊かだったにも拘わらず、独裁政権一族による腐敗と経済政策の失敗により国民が塗炭の苦しみを味わった。他の東欧諸国の体制移行が曲がりなりにも流血の惨事を伴わなかったのに対して唯一、独裁者が逃亡を企てそれが失敗して民衆の面前で夫婦して処刑されたのも無理のないことだった。

そんな時期の首都ブカレストに出張したとき、ホテルから面会場所に移動するときに何度も物乞いの子供たちに囲まれて往生したことがある。まるでハーメルンの笛吹き男の行列のように小さな子供たちがぞろぞろと自分の後をついてくる。これではいくらかを渡そうにも収拾がつかない。振り切るようにして訪問先のビルに駆け込んだ時には実に後味の悪い思いがしたものだ。もちろんそれから30年以上たった今ではそんなことはないのだろう。ルーマニアは2004年にNATO に加盟し、2007年にはEU にも加盟した。そして、多くのルーマニア人がドイツ、フランス、イギリスに仕事を求めて移動したのはよく知られている。実際、2013年頃に自分がロンドンの家を修理したところブカレスト出身という配管工が作業に来たことがある。それがひいてはイギリスのEU離脱につながった一因でもあった。

下の写真はその出張時に買った薔薇の取っ手のついた小物入れの磁器。花弁の一枚一枚が薄くて触れるとすぐに欠けてしまいそうだ。宣伝文句によれば「ルーマニアの伝統を受け継ぎ、マイセンのように愛され、へレンドのように美しく、リモージュと同じくらい繊細」であると。抑えた色調に好感が持てるがこの磁器を見ているとあの時の子供たちの必死な顔が思い出される。

 

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恩師の死

2023年10月20日 14時24分24秒 | 日記

仕事の上でも個人的にも親しくしている、大学時代からの友人の弁護士から不意の電話。共通の、大学時代の恩師がつい先日亡くなったと。急いで新聞の訃報欄を見るとたしかに1週間まえに掲載されていた。間違いなく恩師だ。うっかり見過ごしていた。その友人も見過ごしていた。

我々が大学に入学した当時(まだ学生運動の余燼がどこかに燻っていた)、初めの1年半は教養課程という、進学する学部とは関係なく一般教養を習得する課程があった。この教養課程を履修したあと、それぞれの学部に進学する。文科、理科と言った大括りで入学した学生は、当時文科は500人ほどだったが、選択する第二外国語によって50人ほどのクラス単位に分かれていた(友人の弁護士も同じクラスの所属)。最も多かったのはドイツ語、次いでフランス語だった。当時はフランス文学に興味があったのでフランス語を選択。各クラスには指導する担当教官が配置されていて、自分のクラスの担当は教育学部に籍を置く当時30歳後半の助教授(今の准教授にあたるか)だった。学者にしては珍しく日焼けした、髪をすっきりと刈り上げたスポーツマン風。進学した法学部にも何人かの指導教官がいたが、自分にとっては彼が終生の恩師となった。高校を卒業してまだ人生の入り口にも立っていなかった自分にとって、この教養課程で出会った彼の印象は極めて鮮やかだった。それは知性という点においても、また人間としての魅力と言う点においても。

その最初の出会いから40年後、仕事の第一線から退いた自分に彼が所属していた産学官の気楽なクラブに声をかけられ、また定期的に会うようになった。その会合に行くと真っ先に声をかけてくれて、彼の知己を惜しげもなく紹介してくれた。まるで自分の後継者でもあるように。おかげで、特に大学病院をはじめとする医療関係者の多くと親しくなることが出来た。

年に一度、令息の住むハワイでしばらく過ごすなど、健康そのものだったが7年ほど前に大動脈解離に見舞われた。幸い手術が成功してほぼ元の状態にまで回復することが出来たので、クラブの例会にもまた顔を出すようになった。その例会はコロナが蔓延し始めた20年1月を最後に休会になってしまった。やっと再開できたのが今年の初め、彼が参加していることを期待して出かけたのだが、彼の姿は見えず、聞くところでは最近いくつか手術を受けて外出を控えているとのこと。気にはなっていたが、毎日の忙しさに紛れているうちに今回の訃報を受け取ることになってしまった。

葬儀式は彼の家の近くのキリスト教会で執り行われたと。彼がクリスチャンだったとは今初めて知った。周囲から親しい人が一人また一人と欠けてゆく中で、また、秋の深まってゆく中でとりわけ寂しさを感じさせられる恩師の死。

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