今日、自分の車の冬タイヤを夏タイヤへと交換した。2年ほど、近くのガソリンスタンドに頼んでいたのだが、今は予約でいっぱいという。それなら、と久しぶりにトランクを開けて工具を出して挑戦してみた次第。1時間ほどかかって何とか完了した。
十代で運転免許を取得して以来、自分でタイヤ交換をするのは当然であり、また、それが出来なければいけない、もし体力的にタイヤ交換ができなくなればその時は車を手放す時だとも思っていた。しかし、振り返ってみればタイヤがパンクして交換が必要になったのはそれほど多くない。だから今では古臭い思い込みだったようにも思える。そんな稀な事態のためにいつもスペアタイヤを車に乗せているのは無駄である。最近の車は技術進歩によって、応急処置のための機材を備えているだけでスペアタイヤは搭載していない。なお、交換作業自体はかつてとは異なり最近は道具が進歩していて十分なスペースとある程度の経験があればさほどむつかしくはない。
タイヤを交換しながら、アイルランドのある人のことを思い出した。
1980年代初頭、アイルランドは大不況の最中にあり、今では考えられないが、当時はダブリンの中心街に通行人から小銭の施しを受けようとする母子が歩道に座り込んでいたりした。社会も荒れていて、アイルランド文学を研究していた知人の女性はあまりの治安の悪さに耐えかねて研究もそこそこにイギリスにひきあげてきたほどだった。
H氏はアイルランド財務省の元高官でアメリカ・ワシントンで勤務したこともある温厚な紳士。当時、自分はロンドンにいてアイルランドも管轄していたのだが、同国には拠点がないためそれの代替として旧知のH氏にアドバイザーに就任してもらったことがある。同氏とは2か月に一回ほどダブリンの中心にあった、当時はダブリンを代表する伝統と格式のあるシェルボーンホテルで食事をとりながら現地情勢を報告してもらった。小柄で白髪・温厚な紳士で、その人柄から財務省の後輩にも慕われて大変仕事がやりやすかった。その後自分は転勤で東京に戻り、同時にアドバイザー契約も終了して音信が途絶え、彼のことはほとんど忘れていた。ところが、再度ロンドン勤務になった1992年ころ、突然H氏の子息から、父が車のタイヤを交換している最中に心臓麻痺で急逝した、という連絡があった。多分、70歳代だった思われる。古いベンツを大事に乗っていて時々シェルボーンホテルまでその車で打ち合わせに来てくれたことがあった。あの大事に乗っていたベンツのタイヤ交換中に亡くなるとは、ひょっとするとベンツのタイヤの重さに彼の体力が耐えられなかったのかもしれない。今でも優しい彼の笑顔が目に浮かぶ。
シェルボーンホテルから徒歩で数分のところに国立美術館があり、H氏との打ち合わせの後何度か訪れたことがある。数多くの収蔵品の中では、眼差しが印象的な「リュートを弾く女性」は忘れられない一枚。
シェルボーンホテルで土産にもらった灰皿。使ったことはないがいつの間にかくすんでしまった。
このところ連日のようにテレビで流される、ロシア軍によって破壊されたウクライナの街。黒焦げになってしまった車の残骸が破壊のむごたらしさを象徴している。こんな場面を見ていると、まだタイヤを交換できる自分がどれだけ恵まれていることかとつい思ってしまう・・・。