回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

タイヤ交換

2022年04月15日 17時58分57秒 | 日記

今日、自分の車の冬タイヤを夏タイヤへと交換した。2年ほど、近くのガソリンスタンドに頼んでいたのだが、今は予約でいっぱいという。それなら、と久しぶりにトランクを開けて工具を出して挑戦してみた次第。1時間ほどかかって何とか完了した。

十代で運転免許を取得して以来、自分でタイヤ交換をするのは当然であり、また、それが出来なければいけない、もし体力的にタイヤ交換ができなくなればその時は車を手放す時だとも思っていた。しかし、振り返ってみればタイヤがパンクして交換が必要になったのはそれほど多くない。だから今では古臭い思い込みだったようにも思える。そんな稀な事態のためにいつもスペアタイヤを車に乗せているのは無駄である。最近の車は技術進歩によって、応急処置のための機材を備えているだけでスペアタイヤは搭載していない。なお、交換作業自体はかつてとは異なり最近は道具が進歩していて十分なスペースとある程度の経験があればさほどむつかしくはない。

タイヤを交換しながら、アイルランドのある人のことを思い出した。

1980年代初頭、アイルランドは大不況の最中にあり、今では考えられないが、当時はダブリンの中心街に通行人から小銭の施しを受けようとする母子が歩道に座り込んでいたりした。社会も荒れていて、アイルランド文学を研究していた知人の女性はあまりの治安の悪さに耐えかねて研究もそこそこにイギリスにひきあげてきたほどだった。

H氏はアイルランド財務省の元高官でアメリカ・ワシントンで勤務したこともある温厚な紳士。当時、自分はロンドンにいてアイルランドも管轄していたのだが、同国には拠点がないためそれの代替として旧知のH氏にアドバイザーに就任してもらったことがある。同氏とは2か月に一回ほどダブリンの中心にあった、当時はダブリンを代表する伝統と格式のあるシェルボーンホテルで食事をとりながら現地情勢を報告してもらった。小柄で白髪・温厚な紳士で、その人柄から財務省の後輩にも慕われて大変仕事がやりやすかった。その後自分は転勤で東京に戻り、同時にアドバイザー契約も終了して音信が途絶え、彼のことはほとんど忘れていた。ところが、再度ロンドン勤務になった1992年ころ、突然H氏の子息から、父が車のタイヤを交換している最中に心臓麻痺で急逝した、という連絡があった。多分、70歳代だった思われる。古いベンツを大事に乗っていて時々シェルボーンホテルまでその車で打ち合わせに来てくれたことがあった。あの大事に乗っていたベンツのタイヤ交換中に亡くなるとは、ひょっとするとベンツのタイヤの重さに彼の体力が耐えられなかったのかもしれない。今でも優しい彼の笑顔が目に浮かぶ。

シェルボーンホテルから徒歩で数分のところに国立美術館があり、H氏との打ち合わせの後何度か訪れたことがある。数多くの収蔵品の中では、眼差しが印象的な「リュートを弾く女性」は忘れられない一枚。

シェルボーンホテルで土産にもらった灰皿。使ったことはないがいつの間にかくすんでしまった。

このところ連日のようにテレビで流される、ロシア軍によって破壊されたウクライナの街。黒焦げになってしまった車の残骸が破壊のむごたらしさを象徴している。こんな場面を見ていると、まだタイヤを交換できる自分がどれだけ恵まれていることかとつい思ってしまう・・・。

 

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現役

2022年04月12日 17時51分19秒 | 日記

しばらくぶりに姉と話をしていたら、彼女の孫の男の子(自分から見れば又甥?)が大学受験で志望校に不合格となり、一年浪人することとなったという。受験の時期になると「現役」とか「浪人」という言葉をよく耳にする。長い人生から見れば再度志望校に挑戦するのは決して悪くない。かつては一年浪人したことを「一浪」と書いて「ひとなみ」と「人並」にかけられたこともあった。受験の場合には「現役」という言葉には高校からすんなり志望校に合格したということで「優秀さ」の代名詞のようにも聞こえる。その証拠?に今でも高校の発表する合格者数の内訳にわざわざ「現役」と書き出しているところがある。

社会に出てからは「現役」という言葉は「引退(あるいは定年退職)」との対照で用いられる。還暦を迎えた頃に大学の同期会があった。学生時代の話をひとしきりしたところで、一人があまり親しくなかった、隣にすわった同期の女性に「ところで君は現役?」と尋ねたところ、訊かれた方が「いや、一浪でしたよ」と答えて辺りに困惑というのか、行き違いというなにか妙な雰囲気が漂ったことがある。たぶん訊いた方は職業人として「現役」なのかを尋ねたのに対して、答えた方は大学入試の時の事として返したのだ。彼女はいつも少しのんびりというか天真爛漫なところがあたので、この答え、決して受け狙いではなかったと思う。ただ、どんな時でも不用意に現役、という言葉は出さない方が良いかもしれない。

「生涯現役」といえば、元気一杯の老人を想像する。もちろん前向きに生きている姿を貶めるのはよくない。しかし、後進に道を譲らずいつまでも「現役」にとどまって引退しないのは困りものだ。

困りものどころか、20年以上も「現役」を続ける大統領を戴くある国の行状をみれば、一人の人間による絶対権力・長期の支配がいかに危険かが良く判る。何とか早く「引導」を渡すことはできないか。

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庭仕事

2022年04月11日 15時15分35秒 | 日記

ここ数年、親から相続した800坪ほどの家庭菜園でいとこ達も交えて野菜や果物を育てている。作物はめいめい持ち帰ってもし余れば親しくしている近所や友人たちに分けたりしている。もう少ししたらことしの畑仕事が始まる。農作業ではあるもののたいした重労働ではなく、自分で植えた植物たちの成長を見守り楽しんでいるという、庭仕事の延長のようなものだ。

丁度そんな時に読んだのがイギリスの精神科医スー・スチュアート・スミスの書いた「庭仕事の真髄」。彼女の夫君は王室関連行事にも参画した有名なガーデン・デザイナーで、彼らは二人して30年以上かけてイギリスの田園地帯に大規模な庭(バーン・ガーデン)を作り上げ管理している。

この本は人間誰しもが直面する老い、病、トラウマや孤独に対して庭および植物のもつ癒しの効用について精神科医の立場から述べたもので、時々ある園芸のノウハウ本ではない。イギリスでベストセラーになったというから読んで腑に落ちる人が多かったのだろう。日本語訳も良くこなれていて読みやすい。この本を読んで、そして自分自身の庭仕事(畑仕事)を思い起こしてみると確かに思い当たるところがある。庭で植物や自然と向き合っていると、最近襲われている無力感やよくわからない罪悪感のようなものから少しは解放されて心安らかに生きられそうな気がしてくる。

この本の最後に、フランス革命の推進者の一人でその精神的な支柱ともなったヴォルテール、その風刺小説「カンディード」の最後の一節「なにはともあれ、わたしたちの畑を耕さなければなりません(Cela est bien dit, mais il faut cultiver notre jardin.)」が引用されている。昔この小説を読んだことがあったのを思い出して本棚を探ってみたらすっかりセピア色に変色した岩波文庫が出てきた。昭和38年の第6刷では値段が★★。当時、★は50円だったからこの文庫本は100円だったわけだ。因みに、現在の岩波文庫ではほかの短編5編も併収された新訳が1320円となっている。

かつてこの小説を読んだ時には良く判らないところが多かったように思うが今読んでみると実に味わいがある。それにヨーロッパ、南アメリカ、中近東(トルコ)を駆け巡る、こんなスケールの大きな本が1759年に書かれたとは本当に驚きだ。

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