回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

子供の声

2021年06月28日 15時49分03秒 | 日記

近くの小学校では今、運動会の練習が行われている。この小学校は生徒数が900人ほどもいる大きな学校なので密を避けるために何回かに分けて開催されるようだ。一時は開催自体が危ぶまれていたから、変則ではあっても開催されるということは一歩普段の生活に近づいたようでこちらも明るい気分になる。風向きによっては練習中の子供たちの声がはっきりと聞こえてくる。仕上げの練習をしているらしい、3年生の声が聞こえてきた。風にのって聞こえてくる子供の声は、なんとも耳に心地よい。

普段、いたるところで耳に入ってくる声の中には必ずしも心地よいものばかりではない。むしろ、テレビを席巻しているいわゆる芸人と言われる人たちの声はその話の内容の低俗なこともさることながら、からみつくような不快なものさえある。そんなとき、大きなスピーカー越しではあるが、澄んだ子供の声を聴くのは一服の清涼剤のように感じられる。

人間の声帯は歳を重ねるごとに疲労し劣化してゆく。そんな経年劣化を知らない子供たちの声は、たとえて言えば新車のエンジンのように滑らかでよどみや濁りがない。あるいは一点のしみもない咲き始めの花といったところだろうか。

この小学校の通学路に自分の家が面していることもあって、特に今日のような月曜日には、親に手を引かれて学校の方に向かっていく子供を見ることがある。ひょっとすると週の初めで学校に行くことを嫌がる子供をなだめながら母親が手をつないで連れて行こうとしているのかもしれない。学校でそう教えているのか、庭に出ていると時々子供たちからあいさつされることもある。

今朝、生け垣の伸び過ぎたところを刈り込んでいたらそんな、ランドセルを背負った女の子とその手を引く母親の二人連れが通りかかった。軽く会釈されて顔を見てみると普段着で化粧っ気のない母親と手を引かれた娘、目鼻立ちが驚くほどよく似ている。

そういえば昔、友人の一人に女の子が生まれた時に、彼が「これで自分は見ることのできなかった妻の、生まれた時からの面影をずっと追うことが出来る」と喜んでいたことを思い出した。この母子をみていたら、この子の父親もたぶんそんなことを感じているのではないか、と思った。そんな娘の成長を見届けたようにその友人は、昨年あっけなく白血病で他界してしまった。コロナのせいで結局奥方にも令嬢にもお目にかかる機会はなかったが、きっと二人はよく似ていたのだろう。彼が聞いただろう娘さんの子供の頃の声は格別なものはずだった、と今朝の二人連れの後姿を見送りながらしんみりとした気分になった。

庭の花をいくつか。

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買い物

2021年06月27日 15時26分49秒 | 日記

コロナ禍のせいでスーパーマーケットや百貨店などでは、マスク着用は当然ながら(それも、鼻と口をきちんと覆うようにという細かい指示まである)、最小の人数で、出来るだけ短時間で、レジでは十分距離をとって、という放送がひっきりなしに流れている。以前は、ご婦人の後をついて売り場を回る男性の姿がよく見られたのだが、最近では、駐車場の車の中で帰りを待っている姿を見ることが多くなったように思う。しかし、この暑い季節、エアコンを効かせずに車の中で待つのはいかにもきつい。かといって、エンジンをかけていたのでは、無意味に二酸化炭素を排出することになるし、無駄になる燃料代もばかにならない。結婚以来、荷物運びとしていつも奥方の買い物に付き合っているというかつての同僚がそんな愚痴をこぼしていた。

狭い車内で、それも過酷な環境!で待っている身は辛い。しかし、奥方に付き合って売り場を巡るというのも彼にとってはなかなかの苦行だという。彼にとってみれば、買い物とは必要なものを手に入れる、というものなのだが、奥方にとっては、買い物することそれ自体が目的のように思えるという。そのため、到底買うことのないようなものでも、手に取ってみたりいろいろと吟味したりする。それもひとつではない。奥方にとってはそれこそが買い物の醍醐味なので、それがなければ買い物に来た意味がないというわけだ。当然、そこに費やされる時間は膨大なものになる。お互い水と油のような二人が買い物をしているのは、スーパーマーケットなどでよく見かける、生き生きとした奥方と、所在無げに手を後ろに組んでその後を忠犬のようについて歩いている主人の姿、ということになる。

この違いはどこから来たのか判らないが、お互いなかなか理解しにくいものかもしれない。もっとも、件の同僚は、もうとっくにあきらめている、と達観していた。そしてそれが家庭円満の秘訣なのかもしれない。

ところで時々テレビショッピングという番組?に出会うことがある。大幅な値引きや今買わなければ後悔すると言ったような希少価値を強調して注文の電話を掛けさせる手法は何とも強引に思うが、あれほどの宣伝をしているということは(宣伝費が捻出できるということは)、そこに大きな需要、根強いファンがいるからなのだろう。自分ならとても電話をかける勇気はないが・・・。

かつての職場に、きわめて有能な女性の同僚がいた。ある時このテレビショッピングの話題になり、彼女が、自分はテレビショッピングをいつも楽しみにしている、と言い出した。深夜、テレビを見ているとどうしても買いたいものに出会うことがあるという。こういうテレビショッピングは深夜でも電話で注文することができるから、さっそく電話をかけることになる。時々はつい不要なものを買ってしまうこともあるが、買い物をすることそれ自体が大きな目的なのであまり気にしない。それよりも、ストレス解消によるメリットの方が大きい、と。それで次の日の仕事への意欲がわいてくる、というのならこちらとしてあまり異論をはさむこともなかった。深夜にテレビショッピングで電話をかけている姿は想像できなかったが・・・買い物にはこんな魔力があるようだ。

車の中で待っている主人の姿と、買い物を楽しむ奥方、この、買い物を巡る溝は大きく、深い。

 

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言葉にこだわり

2021年06月26日 13時45分37秒 | 日記

一般に使われているのは知っているし、その意味も分かっているが使いたくない言葉がある。いつまでも固定観念に縛られていると言われるかもしれないが、簡単には切り替えられない。どこかで抵抗感を持ってしまう。これを、頭の柔軟性を失ったとでも言うのだろう。

昨日、ロンドンに住む長年の友人とスカイプビデオでずいぶん長話をした。彼には語学の才能があり、数か国語を自由に操る。幼少の頃に神戸に数年滞在し、母国に帰国後も親の配慮で日本人の家庭教師をつけて日本語を忘れないようにしたせいで今でも日本語を流暢に話すことが出来る。もうずいぶん前になるがロンドン大学の主催する日本語のスピーチコンテストで優勝したことがあるくらいだから、声だけを聴いていたら誰もが日本人が話していると思うだろう。

彼はハーバード大学大学院を卒業するほどの秀才でもあり、もちろん英語は全く問題ない。しかし自分が彼と話をするときには彼の希望で日本語でということになっている。彼としては、今はなかなか日本語を話す機会がないから、自分と話すときくらいは日本語の能力の維持のためにも日本語で、ということなのだ。少しでも役に立てるなら、と自分としても異存はない(というよりは、英語での会話がだんだんと苦痛に感じてきたから、こちらとしても渡りに船、ということで)。

そんな彼との話の途中で、彼がかつて働いていた職場が「やばいことになっている」というのがあった。話の脈絡からすると、何か大変にまずいことが起きている、という意味。かつての同僚を心配していることからもそれは明らかだ。困ったこと、まずいことが起きているということでやばい、という言葉を使ったことでこの言葉が特に耳に残った。この言葉、自分もかつてはその意味で使っていたことがあるが、その響きに抵抗があって、可能な限りほかの言い方をするようにしていた。

しかし、現在の日本では、この言葉はそういう意味では必ずしもない。それどころかむしろ逆の意味を持たせている。先日、NHKテレビを見ていたら、登山家というのか、プロアドベンチャーレーサーという田中陽希が日本百名山一筆書きという番組で、どこかの山に登頂したとき、頂上からの絶景を指さしながら「これほんとやばいっすよ」と表現していた。絶景がやばいという言葉で形容されるというのをNHK も認めたということだろう。事程左様に若い世代を中心にして、いい意味で、例えば美味を称賛する時や何かに感嘆する時に、やばい、と言っているのは今ではどこでも聞かれることだ。

彼は日本語の変化にも敏感で、時流に合わせて使いこなしている方だと思うが彼にとってのやばい、は自分と同じ意味で使っていると判った。彼のこの言葉に対して、老婆心から、今では違う意味でもつかわれているよ、と言いたい気もしたが、それには長い説明が必要になるので、今回は聞き流しておいた。しかし、いずれ、彼にもこの言葉の現在の使われ方を教えなければならないだろう。

自分は子供の頃に母親から、その時代なりの判断基準からだろうが使ってはいけない言葉を教えられた。そんな言葉の一つにこのやばい、というのがあったように思う。もちろん、粋がって友達の間で自分もこっそりと使っていたが、それでもなお今でも口に出すにはいささか抵抗を覚えるのは事実。

いつまでも固定観念にとらわれてはいけないかもしれないが、ほかの表現方法があるのならこの言葉は使いたくないな、と思う。

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夏至

2021年06月21日 16時04分56秒 | 日記

残念ながら日本では丁度梅雨のさなかで、今日が夏至、一年で一番日の長い日と言われてもあまり感慨はない。しかし、緯度の高い、寒い国では日光は自然の恵みであり、ましてやそれが一番長いとなればその日が重要な意味を持つことは容易に想像できる。夏至までは一年の中でも一番心地よい季節で当然ながら気分も高揚する、そしてその日を過ぎると日が短くなるし、風の中にどこかに秋が忍び寄ってきているように感じられるようになる。

北欧スウェ―デンやフィンランドではこの頃の日照時間が20時間ほどにもなって、一日中太陽が出ているという厳密な意味での白夜ではないが、夜でも真っ暗になることはない。夜10時を過ぎてもいつまでも沈まない太陽のせいで、そしてすぐに上ってくる太陽のせいで、つい時間の感覚がおかしくなって体内時計が狂ってしまうような奇妙な気分になる。毎年経験する現地に住んでいる人は慣れているのだろうが、日本などからの旅行者などはつい寝不足になってしまう。

一時期、北欧の仕事をしていたこともあり、この時期に北欧に出張するのはやはり楽しみだった。何度か見たことのある、夏至の行事で特に有名なのはスウェ―デンの夏至祭、その名も「Midsommar」ミッドソンマル。英語のMidsummerとほぼ同じだからわかりやすい。親しい友人たちとにぎやかに過ごすこの祭りに欠かさないのが、ドイツから伝わったという白樺の葉で飾られたポール、マイストング(Majstången)あるいはミッドソンマルストング(midsommarstång)と呼ばれるもの。そして、頭にはミッドソンマルクランス (Midsommarkrans)と呼ばれる花の冠をかぶる。

いつまでも明るい夏至の日、緑のポールの周りで花の冠を被って踊ることほど楽しいものはない。こういう時には極北の国に住んでいることを幸運だと思うだろう。

(SCANIAのHPから)

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雨に咲く

2021年06月20日 12時35分02秒 | 日記

雨に咲く花、と言っても別に雨が降ったから咲くわけではない。咲いているところに雨が降ったということなのだが、言葉としては雨に咲く、と言った方が雰囲気がある。昨日受けたワクチンの、接種したところのかすかな痛みを感じながら雨が上がったばかりの庭に出てみると、雨の滴をたたえたバラがいくつか咲いていた。数日前、町内会の回覧板をお隣に届けた時にその家の庭の薄暗がりの中から漂ってきたバラの香りに、もうその季節は来たのだという思いがしたのだが、それがしばらく見ないうちに我が家の庭の薔薇も咲き始めていた。

その隣の家では今、幼稚園に通っている男の子が庭いじりをしている母親の横で逆立ちの練習をしている。自分も初めて逆立ちが出来た時には、そこに見える世界が大きく回転した新鮮な感じを持ったことを思い出す(逆立ちだから当たり前か・・・)

先日、電話で日本通のロンドンの友人と話をした際、日本でのワクチン接種が遅れているようだが、感染拡大にならないか、と聞かれた。それには、心配がないとは言えないが、日本は何事にも慎重(臆病?)な国だから、始めるまでにはどうしても時間がかかる、しかし体制が整って一旦始まったら接種のスピードは速いと思う、それにロックダウンが続き感染者が460万人、死者が12万人を超えるイギリスとは危機感というか緊張感が違うので、国民の意識をイギリスと比較しても、と答えておいた。そんな日本だが、昨日時点で接種回数が3000万回を超えた、という。G7の中では依然最小であるが、既にカナダに肉薄しており、イタリア・フランスの7割くらいまで来ている。

この数字、日経新聞では政府発表を早く伝えているがNHK の数字はいつも一日遅れ。NHKには、こういった情報を正確なことはもちろんだが迅速に報道する体制が出来ていないのか。国民の不安を払しょくするのが国営放送の使命の一つだとすればあまりに怠慢と言わざるを得ない。いつも遅れている数字を報道しているようで、ことさら日本が後れを取っているという印象を与えることになるだろう。

今年春に胆管癌を宣告された少し年上の知人が、今は毎週化学療法を受けている。血管がすぐそばを通っていて切除手術が出来ないそうだ。医者からは何もしなければ余命1年と言われて本人は内心覚悟を決めているように見える。今のところ、この化学療法は順調に進んでいるようだから、寛解する可能性はあると思うのだが、この前会った時、そこにはきれいな花畑があって、それを見て奥方に、思い出になるからこの景色を背景に私の写真を撮っておいてくれ、と言っていたのには胸が痛んだ。

 

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