近くの小学校では今、運動会の練習が行われている。この小学校は生徒数が900人ほどもいる大きな学校なので密を避けるために何回かに分けて開催されるようだ。一時は開催自体が危ぶまれていたから、変則ではあっても開催されるということは一歩普段の生活に近づいたようでこちらも明るい気分になる。風向きによっては練習中の子供たちの声がはっきりと聞こえてくる。仕上げの練習をしているらしい、3年生の声が聞こえてきた。風にのって聞こえてくる子供の声は、なんとも耳に心地よい。
普段、いたるところで耳に入ってくる声の中には必ずしも心地よいものばかりではない。むしろ、テレビを席巻しているいわゆる芸人と言われる人たちの声はその話の内容の低俗なこともさることながら、からみつくような不快なものさえある。そんなとき、大きなスピーカー越しではあるが、澄んだ子供の声を聴くのは一服の清涼剤のように感じられる。
人間の声帯は歳を重ねるごとに疲労し劣化してゆく。そんな経年劣化を知らない子供たちの声は、たとえて言えば新車のエンジンのように滑らかでよどみや濁りがない。あるいは一点のしみもない咲き始めの花といったところだろうか。
この小学校の通学路に自分の家が面していることもあって、特に今日のような月曜日には、親に手を引かれて学校の方に向かっていく子供を見ることがある。ひょっとすると週の初めで学校に行くことを嫌がる子供をなだめながら母親が手をつないで連れて行こうとしているのかもしれない。学校でそう教えているのか、庭に出ていると時々子供たちからあいさつされることもある。
今朝、生け垣の伸び過ぎたところを刈り込んでいたらそんな、ランドセルを背負った女の子とその手を引く母親の二人連れが通りかかった。軽く会釈されて顔を見てみると普段着で化粧っ気のない母親と手を引かれた娘、目鼻立ちが驚くほどよく似ている。
そういえば昔、友人の一人に女の子が生まれた時に、彼が「これで自分は見ることのできなかった妻の、生まれた時からの面影をずっと追うことが出来る」と喜んでいたことを思い出した。この母子をみていたら、この子の父親もたぶんそんなことを感じているのではないか、と思った。そんな娘の成長を見届けたようにその友人は、昨年あっけなく白血病で他界してしまった。コロナのせいで結局奥方にも令嬢にもお目にかかる機会はなかったが、きっと二人はよく似ていたのだろう。彼が聞いただろう娘さんの子供の頃の声は格別なものはずだった、と今朝の二人連れの後姿を見送りながらしんみりとした気分になった。
庭の花をいくつか。