回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

タッチスクリーン

2021年05月31日 14時19分55秒 | 日記

あくまで一般論だと思うが、日本人は指先が器用だという。さらに、指先の繊細な動きは一朝一夕には代えられないとも。かつて、日本製のコピー機を海外に輸出していたあるメーカーの知人が、欧米諸国では操作ボタンの故障が多く、苦情が来ることがあると言っていた。日本国内であれば、そういったボタンには触れる、あるいは軽く押す、ということが何の問題もなくできるのだが、欧米ではそのボタンを指先で強く長く押す、あるいはピアノの鍵盤にでもするように強くたたく。そのためにその箇所が故障するのだ、と。要するに優しく触れる、あるいは軽く押す、という力加減が出来ず、衝撃を与えるような使い方になっていると。

たしかに欧米人が慣れ親しんでいるタイプライターなどでは、中途半端なたたき方ではキチンと作動しない。また、ピアノにしても、鍵盤に加わる力や衝撃は半端ないから、さもありなんと納得して聞いていた。。

ところが最近はスマホにしてもタブレットにしても、これまでのキーボードのように、たたく、という動作ではなく、触れるあるいは滑らせるという動作が中心になってきた。これは日本人の得意とするところではないか、と思っていたら、世界中の人たちが今やタッチスクリーンを使いこなしている(ように見える)。今では多分例のコピーメーカーの知人も悩まなくて済むようになったのではないか。

翻って自分のことを考えてみると、確かにかつては指先が普通の器用さを持っていたように思うが、最近どうもタッチスクリーンをうまく使いこなせなくなったように思う。実際、車に乗れば今はいろいろな操作をタッチスクリーンでやらなければならない。タッチすべき場所が時にはそれほど大きくない時もある。そういう場合には間違いなく押そうと思うところに触れているか自信がなくなってきた。しなやかで細い指先なら確実にその場所に触れることが出来るのだろうが。

それに、触れても反応を感じることが出来ない。あくまでスクリーンの表面は滑らかで、こちらの意図が伝わっているのか、ミスタッチではないのかの判断は、触覚ではなくその結果が表示されるスクリーンを見ることによる、つまり視覚によることになる。

正直なところ、タッチスクリーンよりもキーボードの方が自分の意思を伝えられるようにも感じる。スマホもタブレットも持ってはいるが今のように何か文章を書こうとするときにはやはりキーボードでなければならない。一区切り終わったところで、ピリオドキーを少し強めに押す、ということが出来るのはキーボードだ。

かつては自分も器用で繊細な日本人、と思い込んでいたが今となっては逆に後れを取ってしまっているようにも思う。つい最近見た夢のなかで、大切な連絡をしなければと思いスマホを操作しようと思ったが画面が全く反応せずに時間が過ぎて行ってパニックに陥る、ということがあった。何度触れても強く触れてもあるいは指に息を吹きかけても画面が凍り付いて反応しない、というのは現代のホラーだ。深層心理にある、そういったタッチパネルへの苦手意識が夢の中で姿を現したのかもしれない。タイプライターが今や骨董品あるいは過去の遺物になったように機械的に作動する数字や文字、記号のキー配列を持つキーボードもいずれそういう運命をたどるのか・・・・

最近、健康食品としても注目を浴びてきたアロニア。自分はその味が苦手、と言って姉が持ってきて植えていった苗木に花が咲いた。この花は梨の花にも似て小さく愛らしい。これまでにもカシスやジューンベリーの木を持ってきては植えている。この庭はいつか、姉の第二果樹園でもなってしまいそうだ。

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つつじ

2021年05月28日 18時04分09秒 | 日記

もうはるか昔になるが1年ほど、京王線の調布に住んだことがある。当時京王線は新宿が終点で、勤務先が東京駅近くだったから朝夕のラッシュ時には新宿駅のうす暗い地下道を通って当時の国鉄の中央線に乗り継いでいた。隙間なく人で埋め尽くされた天井の低い地下連絡通路、そこを音もなく人が川のように流れてゆく様は今思えばどこか恐ろしい風景だ。学生運動や国鉄のストライキ、それに高度成長の名残もあって街中に熱気のようなものが立ち込めていた。特に梅雨入り前の今頃は不安定な天気や蒸し暑さがそれに拍車をかけていたようだった。

残業は当たり前だったので帰りはいつも遅くなり、夜の京王新宿駅ではたいてい停車駅の少ない急行を待って乗っていた。それに乗ると調布の前の停車駅がつつじヶ丘。それから3つの駅を通過して調布に着く。くたびれた体でつつじヶ丘まで来るとあともう一駅、やっと今日一日が終わる、という実感が湧いてきた。しかし、この駅で下車したことは一度もない。

そのうちに転居してしまって京王線に乗ることもなくなった。その一年間、毎日のように電車はこの駅に停車していたにもかかわらず、そして開いているドアの間からホームを見ていたにもかかわらず、つつじヶ丘駅のあたりはきっとツツジがきれいなところなのだろうな、というくらいしか思いつかなかった。しかし、この駅で下車していく人たちの姿を見ていると、その先にはそれぞれの活き活きとした生活が待っているはず、という思いが湧いてきて、ふと東京という都市の大きさと、細胞のような個人が夜の中で溶け合っていくように感じられたものだ。毎日通勤していても乗車駅と降車駅では自分の存在を感じるが、それ以外の駅には全く注意を払わない・・・。

玄関の横に植えてあるツツジが今満開に。

物思はず 道行く行くも 青山を 振り放け見れば つつじ花 にほえ娘子 桜花 栄え娘子・・・(柿本人麻呂)

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枇杷の実

2021年05月27日 16時17分47秒 | 日記

4年ほど前に他界した父の葬儀で弔辞を読んだうちの一人が、父がかつて総代を務めていたお寺の今の総代。型通りの弔辞の中に、父が自宅の温室で育てていた枇杷がたわわに実をつけたので、それを総代会に持ってきて皆に配ったことあった、というくだりがあった。

九州や四国に自生している枇杷だが、北海道のような寒冷地でも温室の中であれば枯れることはなく、また今の時期に実をつける。枇杷の木自体は大きくなる木だから、場所の限られる温室で育てるためには定期的に剪定して天井に届かないようにしなければならない。父の後を引き継いだこの家の温室で今年もまた枇杷が実をつけた。昨年は剪定の時期を誤ったのかわずかしか実をつけなかった。そんな失敗をしたので去年からは早めに剪定をし、水やりや肥料にも気を付けていたら今年はかつてのようにいっぱい実をつけてくれた。

温室の中にはサボテンや蘇鉄など父が遺していった鉢植えがある。この枇杷は多分家を建てた後間もなく地面に植えたものだろう。家を傾かせるからに庭には植えないように言われるような枇杷は地中に大きく根を広げていて、今では地中の深いところでは温室をはみ出していると思う。

晩年外出することも無くほとんど家にいた父だから、居間の続きにある数坪ほどの温室は冬の間でもそれほど冷え込まなかったに違いない。夏には三方から陽が入って文字通りの温室効果で熱帯のような暑さにもなるが、真冬にはかなり冷え込む。一方で自分は常時この家にいるわけではないから、今後真冬に長い間家を空けるときには暖房を入れておかなければならないだろう。

少し酸味の利いたこの黄色い枇杷の実を食べているとせっせと手入れをしていただろう父の姿が目に浮かんでくる。

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春の終わり

2021年05月25日 18時19分30秒 | 日記

庭の藤が見ごろになった。昔から植えてあったのだが、しばらく手入れをしていなかったので、枝が絡み合ったり、隣の松と競合したりして花を咲かせるのを忘れていた時期があった。この数年、藤棚を作り、思い切って枝を落としたりしていたら、棚一杯に花をつけるようになった。この花が咲くと、春が終わって夏の始まりとなる。

桜の花と同じく藤の花の散り際はあっけない。満開になったかと思えばもう散り始めている。まるで重さが何もないような花びらの一つ一つが風に運ばれている。

わが宿に咲ける藤波立ちかへりすぎがてにのみ人の見るらん

藤の花で思い出すのは、はるか昔、高校に入学した5月、級友の母親が亡くなってクラスを代表して自宅にお悔やみにあがったことがある。焼香の後、満開の藤棚の下で見送ってくれた、青ざめた顔の級友のセーラー服姿が今でも鮮やかに思い出される。

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ピアノ調律騒動

2021年05月24日 18時07分59秒 | 日記

普段はあまり弾かないピアノ。それでも前回調律してから4年も過ぎてしまったので、前回と同じ楽器店に電話をして調律してもらうことにした。その楽器店が紹介してきたのがやはり前回と同じ調律師。スタインウェイ本社認定コンサートチューナーという肩書きを持ったベテランだから間違いはない。前回と同じく白い大型乗用車を自分で運転して現れた。部屋に入るなり、日本ではほとんど見かけないものだったのでよく覚えている、それに家もちょっと特徴があったので、と(古い家、というところをお世辞で)。

一時間半ほど、大きなキャリーバッグの中から道具を引っ張り出して、上前板や鍵盤押さえなどを外して一つ一つの調律が終了、確かめて欲しいといわれてちょっと弾いてみると、生き生きとした音色になった(ような感じ)。これなら満足、と言ったら、今度は深刻な顔をして、実は、鍵盤押さえを外した時に側板に引っかき傷をつけてしまったので見て欲しい、と。改めて鍵盤の右側の側板を見るとかすかに10センチほどの傷がある。よく見れば色の違いもわかるものだが、自分用のピアノであり50年近く経った、一部には色あせたところもあるし、それにこの傷はそれほど気にならない程度のものだ。大変申し訳ない、とこの調律師は自分の失敗に気落ちしているようだったので、別に売り物にするわけではないので心配しないで欲しい、ところで時間があるならコーヒーでもどうかと勧めてみた、

コーヒーを飲みながら聞くと、コロナのせいでコンサートが軒並み中止になり仕事が激減している、という。更に、テレワークで自宅で過ごす時間が増えてピアノの調律も増えるのではないかとも思ったが、ピアノ教室などの不振の方が影響が大きいらしい。彼は個人で仕事をしているので、まともに影響を受けたようだが、それでも余裕のある辺りはこれまでの貯えが充分あったのか。

彼によると、スタインウェイはニューヨークとハンブルグに製造拠点があり、日本はハンブルグの担当地域に入っているため、日本にあるのはほとんどがハンブルグ(ドイツ)製で、このようなニューヨーク製のスタインウェイは珍しいのだということだった。それに個人からこのピアノの調律を頼まれることはあまりないから、今日は楽しみにしていた、それに、どちらかと言えばグランドピアノが中心で、アップライトピアノは珍しいと。帰り際、あまりに申し訳なさそうな顔をしていたので、もう気にしなくて良いですから、と言って見送った。

その後、近くのスーパーに買い物に行っていたら彼から電話がかかってきた。先ほどの件だが、自分の知り合いに大手ピアノメーカー専属でピアノの修繕を専門にしているベテランの職人がいる。彼に話をしたら、明日にでも修理に伺えると言っている。ついてはまた手間を取らせるが、もう一度お邪魔させてくれないか、と。もちろん、修理費は請求しない。このままでは気が済まないので何とか了承してほしい、という。そこまで言うのなら、ということで翌日待っていると彼ともう一人初老のいかにも職人という風情の男が現れた。やはり大きなキャリーケースを引いて。その中には20-30ほどの小さな塗料の入ったチューブが並んでいて、まるで画家の道具のようだ(実は本当の画家の絵の具をみたことはないので、映画などで見た風景の受け売り)。

改めて上前板と鍵盤押さえを外し、傷の所の色に合わせるように何種類かの塗料を小さなパレットの上で調合し、それを何度も何度も薄く塗り重ねていく。そうしているうちに傷の部分が埋められかつ色も元の色に戻ってきた。ついでにほかの所にあった小さな傷も修復してくれた。この日は運よく晴れていたので乾燥も早くなりそうと言いつつ、結局作業は一時間以上かかった。

前日と同じく、作業の後、たまたま佐賀の嬉野産の紅茶があったので、それを飲みながら話を聞いてみるとこのピアノ修理の職人は初めは家具職人として仕事を始めたが、30年ほど前ピアノ修理の求人を見て何か人とは違う仕事をしてみたいと思いこの道に入った。それ以来ピアノ修理一筋、確かに腕と責任感は人一倍ありそうに見えた。ピアノの移動中にどこかに触れて傷をつけてしまうことはときにあるし、また、陽が当たって色むらが出来たり、と、コンサートホールから学校、ピアノ教室まで修理の引き合いは結構来るという。

どんな名人でも人間である以上絶対ということはない。こちらにとっては大したことではなかったが、調律師にとっては自身の面目(プライド)のかかった大事件だったのだろう。時間は取られてしまったが、普段なかなか見ることのできない職人の仕事を垣間見れたというのは得難い経験。上手な修理のおかげで今は何事もなかったようなこのピアノ・・・。

庭の片隅に群生しているスズランが咲き始めた。

 

 

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